【寄稿】日本書紀にのみ登場する任那日本府、その実像は

 まず任那日本府の起源を、4世紀中盤~後半にかけて神功皇后が新羅・伽耶7カ国を平定したという説話に求めているが、肝心の任那日本府の記録は5世紀後半(1回)と6世紀前半(22回)に限られている。4世紀後半に新羅と伽耶を平定した倭や百済が、100~150年もたってから統治、もしくは軍政機関を設置したというのは理解できない。何より、23回も登場する日本府の記録の中に、倭や百済が伽耶で租税徴収をしたとか、力役・軍士を動員したとか、政治的強制力を示したといった記述は見られない。日本府という用語が見られる記録は全て、倭の使臣が、現在の慶尚南道咸安に位置していた阿羅国王の保護の下、百済と新羅を相手に展開していた外交活動に関するものだ。つまり任那日本府の実体は、倭王が伽耶に派遣していた外交使節であって、日本書紀の編さん者が自らの歴史解釈に基づき、統治機関を意味する「府」という漢字を当てて記録したというだけのことだ。

 こうして任那日本府の虚像と実体が明らかにされても、なお日本書紀の関連記録に注目すべき理由は、伽耶史の復元のためだ。この記録には、『三国史記』や『三国遺事』にはない、伽耶史復元のための資料が毛細血管のように絡み付いている。任那日本府説の克服を通して、日本府と表記された倭使の活動が、親百済・反新羅から親新羅・反百済へと変わっていく特徴が新たに指摘され、こうした事実は新羅と百済の侵略に対応してきた伽耶の外交戦略の抽出を可能にした。伽耶に対する植民支配という仮説が、伽耶の独立維持努力という歴史へ変わることになったわけだ。

 韓国における伽耶史研究の不振が、植民史学の任那日本府説を呼び込んだ。韓国の過去を振り返るもう一つの鏡たる、日本書紀の関連記事の研究を通した伽耶史の復元が必要だ。

李永植(イ・ヨンシク)仁済大学歴史考古学科教授
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  • ▲慶尚南道咸安の街中にある、伽耶時代の建物跡の発掘地。「529年3月に阿羅国(阿羅伽耶)が百済・新羅・倭の使節を招いて開催した」と日本書紀に記録されている高堂の会議場と推定されている。
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