関東大震災100年:小さな石碑だけが残る100年前の「関東の惨劇」(上)

「関東大震災100年…埋もれる朝鮮人虐殺」〈1〉

 荒川の堤防から出ておよそ3分歩き、住宅街に入ると、10坪(約33平方メートル)ほどの土地に「悼」と書かれた追悼碑が立っていた。高さ1メートルほどの石碑の前には子ども用のチョゴリを着せた人形と花柄の靴、キクの花、ハスの花が置かれていた。市民団体「ほうせんか」は当初、虐殺が起きた荒川に追悼碑を立てようとしたが、河川敷を所有する日本政府と東京都は許諾しなかった。「ほうせんか」のメンバーらは、日本政府・韓国政府いずれの金銭支援もなしに私費で土地を購入し、2009年に追悼碑を作った。

 石碑の裏面には、こう記されていた。「1923年、関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言飛語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する」。在日韓国人2世のシン・ミンジャさんは「誰のお金ももらわず私有地に立てたので、碑文に事実をそのまま書くことができた」と語った。日本政府が認めない「軍隊・警察の虐殺」を碑文に明記できたという意味だ。

 「ほうせんか」は、虐殺の証言を集めて本や講演などで知らせた。おかげで、荒川の惨状が世に出た。ここで大規模な虐殺が起きた理由は、逆説的にも、東京都心から北東にかなり離れていて地震の被害が少なかったからだ。火災で家を失った避難民2万人以上が荒川一帯に集まった。荒川にある「四ツ木橋」を渡れば、千葉県など遠方へ避難することもできた。陸地を開削し、放水路として作った今の荒川は、当時まだ大規模な工事中で、大勢の朝鮮人が工事の作業員として付近で暮らしていた。余震が怖い朝鮮人らもまた、避難民に混じって堤防に集まっていた。

【写真】1923年の関東大震災当時、日本警察に逮捕・収容された朝鮮人たちの様子

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