「文化財の名称から親日派の名前を取り除いたのでうまく日帝清算できました」 /ソウル

文化財の名称から親日派を消し去ったソウル市

 1940年に「韓相竜氏還暦記念会」という団体が結成され、彼の還暦を大々的に祝うほどの大物だった。祝賀イベントの中には『韓相竜を語る』という単行本の出版もあった。韓相竜が口述した人生を整理した一冊だ。

 その人生を口述した場所こそ、まさにあの「韓氏家屋」だ。口述は1940年5月27日から7月5日まで、30回にわたりこの家で行われた。韓相竜はこの家を1928年に、王族だった李達鎔(イ・ダルヨン)の弟・李逵鎔(イ・ギュヨン)から2万8000ウォンで購入し、同年7月16日に入居した。(『韓相竜を語る』〈1940年〉、キム・ミョンス訳、ヘアン刊、2007、pp.275、518)

 こうした来歴を持つ家が流れ流れて、1977年にソウル市の民俗資料に指定された。当時の名前は「産業銀行管理家」だった。09年に、この家の名前をソウル市が「韓氏家屋」に変えた。変えた理由は妙なものだ。

 「(韓相竜は)李完用(イ・ワンヨン)のおいで、彼自身もまた積極的親日行為をしたことが明らかになっており、文化財指定名称では韓相竜の名前全体を明かさず『韓氏家屋』に変更する」(先のソウル市告示)。家の前に案内板はない。庭の右手側にある案内板には、母屋の名前である「キ謙齋」というタイトルの下に「名称:嘉会洞韓氏家屋」と紹介してある。名前を変えつつも案内板は取り替えず、名称部分だけを別途、上から書き直している。韓相竜の口述集には、この「キ謙齋」という名前は出てこない。また、案内板には韓相竜についての説明はない。

 ならば、北村の道の向こうにある白麟済家屋は何なのか。この「韓氏家屋」に引っ越す前、韓相竜が24年間暮らしていた家だ。1906年4月、韓相竜がこの家を購入した後、1913年までに隣家12軒を買い入れて改築した。同年7月3日に韓相竜一家が入居したこの家は、敷地907坪(約2990平方メートル)に建坪が110坪(約363平方メートル)。朝鮮総督のような権力者がこの家に出入りした。漢城銀行の資金不足で、韓相竜はこの家を整理して5万ウォン用意し、道の向こうにある家へ引っ越した。(前掲書p135)

 この家の最後の住人が白麟済(ペク・インジェ)だったが、ソウル市はこの家を文化財にする際、「白麟済家屋」と命名した。これもまた2009年に、韓相竜との関係を説明すべきだという論争が起きたが、「産業銀行管理家を『嘉会洞韓氏家屋』と名称変更することを進めている点を考慮し」「1944年以降、白麟済と子孫によって管理され続けてきたことから」「白麟済家」を「白麟済家屋」とだけ変えた。朝鮮貯蓄銀行も隠蔽(いんぺい)し、韓相竜も隠蔽した。隠蔽したから日帝残滓もさっぱり清算された。

朴鍾仁(パク・チョンイン)先任記者

【写真】ソウル・北村の「嘉会洞韓氏家屋」の案内板

前のページ 1 | 2 次のページ
<記事、写真、画像の無断転載を禁じます。 Copyright (c) Chosunonline.com>
関連フォト
1 / 1

left

  • 「文化財の名称から親日派の名前を取り除いたのでうまく日帝清算できました」 /ソウル
  • 「文化財の名称から親日派の名前を取り除いたのでうまく日帝清算できました」 /ソウル

right

あわせて読みたい