▲朴垠柱(パク・ウンジュ)文化部長

 90年代末、夜間大学院に通っていた。期末試験の際、試験監督が席をはずすと、数人が本を取り出し答えを書いた。最初に本を取りだしたのは名前が広く知られている運動家だった。道徳性を「他人を刺す刃物」としてだけ利用する運動家を何人も見てきたはずだが、こうした厚かましい様子を見てあきれた。

 4学期目に入ると論文の話をした。「何から写せばいいか分からない」という冗談半分、本気半分の話が飛び交った。勉強に熱中していたわけでもなく、適当に学位を取ればむしろ大学の評判を落とすかもしれないと思い、論文は書かなかった。だからといって道徳性がそれほど立派だったわけではない。そのとき論文を書いていたら「修士論文でノーベル賞を取るつもりなの? 適当に(他の人のを)写しなよ」という雰囲気に巻き込まれていただろう。避けたものは大きかった。

 「どれくらいつらいのか、青春よ」。このような内容の偽物の自己啓発本が氾濫する時代に、違う声を挙げる人が登場した。「ぶつぶつ言うな。私はもっと大変だった」「夢をかなえるために君は一体何をしたのか」と訴え掛ける度胸のある女性、スター講師の金美敬(キム・ミギョン)氏だ。数日前、本紙は金氏が夜間大学院に通っていたときに書いた論文に数カ所の盗作があったと報じた。

 翌日、金氏は公式の立場を明らかにした。「学界の基準に合わせられなかったことは誤っていたが、良心までむやみに売ったわけではなかった」とした。発表文を要約すると「過ちはあったが、意図的ではなかった。朝鮮日報の報道は全体を見ずに一部だけ見ているものだ」という内容だった。普段の威勢のいい語調に比べて余裕がないように感じられる。そのような立場では誰でも同じかもしれないが、金美敬氏らしい弁明ではなかった。普段堂々と「出世した田舎の女」と自分を呼んでいるように「田舎の女が欲を出してしまった。申し訳ない」ときっぱり言った方がよかったのではないだろうか。

金氏の盗作論文をめぐって、彼女がどの程度責任を取るべきかという話が出た。ある先輩は「今のポジションを獲得する上で学位が決定的な要因であるなら職を辞するべきだし、そうではないなら必ずしもやめる必要はないのではないか」と言った。記者も金氏がもう一度チャンスを得てもいいのではないかと思う。

 2007年に起きたシン・ジョンア元東国大助教授の学歴詐称事件を機に、韓国社会はようやく、偽の学歴を語り履歴書に書くことが「犯罪」だという事実に共感するようになった。「他人の論文を一部でも写すのは大きな犯罪」だという社会的認識が形成されたのもここ数年のことだ。

 韓国社会では「博士などありふれていて、どこにでもいる」とからかいながらも「どこどこの博士」だと分かればその人の言葉になんとなく重みを感じてきた。いくら手術の腕が良くても、患者を上手に診察する医師だとしても、博士号がなければ大学病院の教授になることはできない。意味のない論文だとしても本数を稼げば定年までのポストが保障される。「質的検証」は誰もしない。大学や機関は恣意(しい)的採用の予防線として論文の本数や学位証明書を利用してきた。大学は特殊大学院をやたらと作り、修士・博士学位を与えるという「商売」で金を稼ぎ、そこで博士号を取得しながらも職の見つからない卒業生に就職先を与えることで、再び裏金を手にする。2回にわたってもうかる市場だ。

 偽の論文を書くのは非道徳的だ。しかしそれが許される環境があるために次々と盗作が生まれる。道徳性の再武装では足りないだろう。学位論文の盗作が見つかった場合、それを書いた人だけでなく、そのような論文に合格を与えた人を公表し、大学にもペナルティーを与えるべきだ。そうすれば、学位乱発の需要と供給のサイクルが途絶えるのではないだろうか。

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