検察が11月19日、朴裕河(パク・ユハ)世宗大学教授の著書『帝国の慰安婦』について、旧日本軍従軍慰安婦だった女性たちの名誉を毀損(きそん)しているとして同教授を在宅起訴して以来、国内外で批判が相次いでいる。同月26日には日米の学者・ジャーナリスト・政治家らが「学問の場に公権力が足を踏み入れてはならない」と抗議声明を発表した。12月2日にも韓国の有識者たちが「従軍慰安婦に対する世論を国の統制下に置くことがどのような結果をもたらすかは明らかだ」との声明を発表している。日本では今回の事態を、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が朴槿恵(パク・クンヘ)大統領に関する記事で在宅起訴されたことと結び付け、「韓国の言論の自由」問題に飛び火させている。

 しかし、これらの批判は今回の事態の性質に対する誤解から生じたものだ。今回の事態の対立構図は「公権力」対「朴裕河」ではなく、「元慰安婦」対「朴裕河」だ。朴裕河教授に対する捜査は検察や警察が自ら始めたわけではない。まず元慰安婦らが朴裕河教授を訴え、出版・販売禁止仮処分を申請した。仮処分に関して裁判所は著書の一部表現が名誉を毀損していると認め、削除を指示した。そして検察は一部記述が人格権と名誉権を侵害しているとして在宅起訴した。告訴があった以上、検察は法的手続きに基づく判断や処理を回避することはできない。それに、朴槿恵大統領は公の立場にある人物であり、元慰安婦はそうではない。加藤前支局長を告発したのは第三者である保守系団体だ。一方、朴裕河教授を告訴したのは当事者たちであるため、二つの事件を同じ性格と見なすのは妥当でない。

 『帝国の慰安婦』が元慰安婦たちの名誉を毀損しているかどうかは、裁判所が判断することだ。朴裕河教授は、裁判所や検察が名誉毀損だと指摘した「売春婦」「(日本軍と)同志的な関係」といった表現が自身の主張ではなく、文献・資料・証言を引用したものであり、論理展開と文脈を読めばそうした表現を使った理由が分かるはずだ、と言った。果たしてそうなのかは裁判の過程で十分に明らかになるだろう。今回の裁判は「言論・出版の自由」と「名誉毀損」がぶつかり合う試金石だ。朴裕河教授は悔しいだろうが、ほかの国民と同様、14日に始まる裁判に誠実に臨まなければならない。

 この裁判は、朴裕河教授が著書で述べた内容の慰安婦問題解決における意味と別途に考えるべきだ。朴裕河教授に批判的な国内外の有識者たちは公開討論を何度も提案している。朴裕河教授を擁護する日米の有識者たちは「メディア空間を通じた議論の活性化」を主張、朴裕河教授も「本格的な議論や公論化の場が必要だ」と述べた。『帝国の慰安婦』をめぐる議論は既に韓国だけでなく国際的な影響力を持つだけに、きちんとした議論は不可欠だ。

 これに関連して懸念されるのは、日本で朴裕河教授が韓国の「良心」を代表する有識者と見なされることだ。朴裕河教授は日本文学研究者であって、誠意を持って慰安婦問題を取り上げているにしても限界がある。『帝国の慰安婦』も本格的な学術書というよりは自身の考えを書き留めた散文集に近い。日本のメディアや有識者たちが同問題の歴史的・法的・社会的文脈を深く研究してきた韓国の専門家たちの意見を退け、耳を傾けやすい朴裕河教授の考えを取り上げれば、問題はさらにこじれることになる。今回の事態が韓日関係に否定的な影響を及ぼすことのないよう、慎重なアプローチをお願いしたい。

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