ドイツの大手自動車メーカー・フォルクスワーゲンによる詐欺にも等しい不正行為が発覚し、世界各国で販売に大きなブレーキがかかっている。ところがそのような中、唯一韓国でだけは「これまでと変わらず販売が好調」などと報じられ、多くのことを考えさせられた。韓国社会の特性、あるいは韓国人の心の奥深いところで影響を及ぼすDNAとでも言うべきもの、あるいはわれわれが克服しようにも簡単にはできない限界のようなものが、意外な形で表面化しているように感じるからだ。

 人間は誰でも「他人」よりも「自分」の方が重要で、「世の中」よりも「自分の家族」の方を優先する。しかしそれにも一定の限度というものがあるのではないか。ある国ではフォルクスワーゲンの車が環境汚染の原因になっていることを隠し、うそをついたとして販売台数が100分の1にまで急減したが、韓国では同社がある車種について少し値引きしただけで販売が65%も増えたそうだ。これは韓国社会において「自分の利益」と「社会全体」との間のバランスがいかにゆがんでいるのかを示している。

 環境汚染は社会の構成員全体にとって共通の問題だ。そのため米国や日本では環境汚染も「自分の問題」と解釈されている。ところが韓国では「みんなの問題」は「他人の問題」でもあるため、結果的に誰の問題でもなくなってしまう。もしフォルクスワーゲンが今回、みんなの問題に相当する大気汚染ではなく、例えば自分だけがけがをするブレーキに欠陥のある車を販売していたとすれば、おそらく韓国でもほとんど売れなくなっていただろう。

 中東呼吸器症候群(MERS)の感染が拡大した当時、実際は感染の心配がほとんどない数百万人がマスクを着用して生活した。ところが医者の話を聞くと、本当にマスクを着用すべき肺の病気のある患者たちは、一歩病院の外に出るとマスクを着用しなくなるという。自分が感染する可能性が少しでもあればマスクを着用するが、自分が他人に感染させる立場にある場合はマスクを着用しない。これはフォルクスワーゲンの販売増と同じ心理だ。空気中に粒子状物質(PM)が発生する大きな原因の一つがディーゼルエンジンで走るバスだ。天然ガスを燃料とするバスは環境には優しいが燃費が悪いため、これを普及させるにはガスステーションを多く設置しなければならないが、住民の反対が根強く設置はなかなか進まない。空気がきれいになるのはみんなにとって良いことだが、ガスステーションを建設させないことで自分の家の価格が上がるのは自分にとってのみ良いことだ。この二つのうちどちらかを選ばねばならないとき、われわれは迷わず「自分」を選ぶ。韓国が世界10位圏の経済大国であるとか、高校以上の教育を受けた国民が80%以上になるとか自慢しても、公私のどちらかを優先すべき状況に立たされたとき、われわれは50-60年前も今も同じく間違いなく「自分」を選択するだろう。

 「韓国人は自分の家から出るごみは塀の外に投げ、日本人は塀の外のごみを自分の家に持ち帰る」という言葉を聞いたことがある。つい先日「今年の移民者賞」を受賞したある日本人女性も同じようなことを言っていた。韓国に嫁に来て28年になるこの女性は「韓国に来ても変わらない習慣は何か」という質問に「今では食事も韓国式に慣れたが、変わらない習慣があるとすれば、外で出たごみを家に持ち帰ることだ。ただこれは夫が最も嫌っている」と話していた。

 道端にごみを捨てないことはさほど難しいことではない。それができないのは、その人が「家の外は自分とは関係ない場所だから何をやっても構わない」と考えているからだ。自分と自分の家族以外の領域といえば社会と国だ。口では「自分は愛国者」と堂々と語る人間はこの国にいくらでもいるが、本当に社会と国のことを考えるその根底には何があるのか、それを考えると背筋が寒くなるときがある。

 昔学校で読んだ教科書に、独立運動家として知られる月南・李商在(イ・サンジェ)先生(1850-1927)の話があった。ある日、嫁が泣いているので月南先生がその理由を尋ねると、ミシンが壊れたからだという。すると月南先生は「お前は国が滅んだ時には一滴の涙も流さなかったのに、ミシンが壊れたときにはそんなに悲しく泣くのか」と言って嘆いた。100年も前の話だが、今と何も変わらないのではないか。

 もう一つ、いつも心に引っ掛かるのはソウル大学韓国学研究院の金時徳(キム・シドク)教授が書いた内容だ。金教授の指摘はこうだ。中国の経書『忠経』は『孝経』に倣って主君への忠誠を論じた書だ。昔から中国や日本では広く読まれ、その人気は近代になっても衰えていない。かつての満州でもこの書は重視されていた。ところが朝鮮や現代の韓国人の中でこの『忠経』について知っている人間はどれほどいるだろうか。前近代の社会における主君、つまり国家に対する忠誠と家(門)への忠誠が衝突したとき、忠を孝よりも優先させた事例は韓国ではほとんど確認できない。もちろん母親の葬儀の時も出征を続けた李舜臣(イ・スンシン)将軍のようなケースがないわけではない。しかしユーラシア東部の地域の中で、唯一韓半島(朝鮮半島)だけは『忠経』の存在感が希薄で、『孝経』だけが受け入れられた特殊な地域であると言わざるを得ないというのが金教授の指摘の趣旨だ。

 「フォルクスワーゲンの販売が好調」という韓国での特殊な現象を目の当たりにした時に、忠よりも孝、公よりも私を常に優先させるこの特殊性が思い浮かんだのは、ちょうど6・25戦争(朝鮮戦争)が始まった6月25日を迎えたからだ。予備役大将のペク・ソンヨプ氏は「中共軍が参戦したという話を聞くと、食事中にスプーンを放り投げて逃げ出した」と開戦当時の様子を振り返っているが、これこそまさにわれわれの姿だ。「外敵と戦うときはでくの坊、われわれ同士で戦うときは鬼のような勇士」と言われる韓国の歴史は、このような韓国人の特殊性をよく表している。6・25戦争から60年が過ぎた今、国民安全処(省庁の一つ)が実施した世論調査でもこれを裏付ける結果が出ている。戦争が起こった場合、成人の45%、大学生の62%が「国よりも個人や家庭の方が優先」と回答した。世論調査でこのような結果が出たとすれば、実際に戦争が起こればどうなるだろうか。われわれはもしかすると、大黒柱のないまま細々と生きている国に住んでいるのではないだろうか。

 

ホーム TOP