▲慶尚南道咸安の街中にある、伽耶時代の建物跡の発掘地。「529年3月に阿羅国(阿羅伽耶)が百済・新羅・倭の使節を招いて開催した」と日本書紀に記録されている高堂の会議場と推定されている。

 「任那日本府」は、古代日本の大和政権が西暦720年に編さんした『日本書紀』にのみ登場する用語だ。しかし、ここから派生した「任那日本府説」は、近代日本の歴史学界が作り出した、歴史を装った虚像だった。任那日本府説とは、日本が4世紀から6世紀まで実に200年間にわたり、百済・新羅・伽耶を含む韓半島(朝鮮半島)南部地域を近代の植民地のごとく経営し、その統治の中心として伽耶地域に任那日本府を設置・運営したという主張だ。しかし植民地時代に、伽耶の古墳群をはじめとする慶尚道地方の遺跡を、植民支配者に許された無限の権利で掘り返してみたが、任那日本府を証明できる証拠は一つも発見できなかった。一方で光復(日本の植民地支配からの解放)後、韓国の考古学界もまた、伽耶の遺跡を発掘して関連遺物が出土するたびに「これで任那日本府説は否定された」という発表を繰り返してきたが、任那日本府の存在自体を否定できる直接証拠が出たことはなかった。任那日本府の問題は、日本書紀の編さん者の特別な歴史意識と記述方式にすぎないからだ。

 任那日本府はなかったが、韓国と日本ではさまざまな任那日本府説が横行した。古代日本が伽耶に置いた出張機関という説。韓半島ではなく現在の岡山県付近にあった伽耶系の分国・任那をめぐり、畿内の大和政権が九州の百済系分国(北西部)および新羅系分国(北東部)との争奪戦に勝利して設置した機関だという説。大和政権とは関係のない、伽耶の倭人の自治的な行政機関だったという説。主体を日本から百済に変えて「任那百済府」と見なし、伽耶に設置された百済軍司令部だったと解釈する説。統治機関や行政機関ではなく、外交使節だったという説。さまざまな説が展開された。しかし、複雑な史料批判を抜きに日本書紀をじっと眺めるだけでも、外交使節説を除き、全て虚像だということを簡単に明らかにできる。

 まず任那日本府の起源を、4世紀中盤~後半にかけて神功皇后が新羅・伽耶7カ国を平定したという説話に求めているが、肝心の任那日本府の記録は5世紀後半(1回)と6世紀前半(22回)に限られている。4世紀後半に新羅と伽耶を平定した倭や百済が、100~150年もたってから統治、もしくは軍政機関を設置したというのは理解できない。何より、23回も登場する日本府の記録の中に、倭や百済が伽耶で租税徴収をしたとか、力役・軍士を動員したとか、政治的強制力を示したといった記述は見られない。日本府という用語が見られる記録は全て、倭の使臣が、現在の慶尚南道咸安に位置していた阿羅国王の保護の下、百済と新羅を相手に展開していた外交活動に関するものだ。つまり任那日本府の実体は、倭王が伽耶に派遣していた外交使節であって、日本書紀の編さん者が自らの歴史解釈に基づき、統治機関を意味する「府」という漢字を当てて記録したというだけのことだ。

 こうして任那日本府の虚像と実体が明らかにされても、なお日本書紀の関連記録に注目すべき理由は、伽耶史の復元のためだ。この記録には、『三国史記』や『三国遺事』にはない、伽耶史復元のための資料が毛細血管のように絡み付いている。任那日本府説の克服を通して、日本府と表記された倭使の活動が、親百済・反新羅から親新羅・反百済へと変わっていく特徴が新たに指摘され、こうした事実は新羅と百済の侵略に対応してきた伽耶の外交戦略の抽出を可能にした。伽耶に対する植民支配という仮説が、伽耶の独立維持努力という歴史へ変わることになったわけだ。

 韓国における伽耶史研究の不振が、植民史学の任那日本府説を呼び込んだ。韓国の過去を振り返るもう一つの鏡たる、日本書紀の関連記事の研究を通した伽耶史の復元が必要だ。

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