朴槿恵(パク・クンへ)前大統領は、韓国の憲政史上初となる父娘大統領、女性大統領として記録されたが、初の弾劾大統領としても残ることになった。朴・前大統領の生涯では、常に栄辱と浮沈が交錯していた。

■12歳から大統領府で生活…両親を凶弾で失う

 朴・前大統領は6・25戦争中の1952年2月2日、大邱市三徳洞の借家で、朴正煕(パク・チョンヒ)大領(大佐に相当)=当時=と陸英修(ユク・ヨンス)夫人の長女として生まれた。1964年、12歳のころから始まった大統領府(青瓦台)暮らしを、朴・前大統領は、あまり幸せそうに描写することはなかった。自叙伝には「青瓦台暮らしは、してはいけない、禁忌で一杯の日々だった」と記している。74年の8・15祝賀行事で、母親が文世光(ムン・セグァン)に撃たれて死亡したため、フランス留学生活をとりやめて韓国に帰国した。朴・前大統領は当時の日記に「洒脱な生活、一人の人間としての自分の夢、その全てを放り捨てることにした」と記した。22歳のときから、ファーストレディー役を務めた。79年10月27日午前1時30分ごろ、父親が銃撃され死亡したという報告を受けた時には「前線には異常ありませんか」と尋ねた。その一方で、父親の血のついたネクタイとワイシャツを洗いながら泣いた。「5年前、母の血がついた韓服を洗った記憶が重なった」という。崔順実(チェ・スンシル)被告の父親、崔太敏(チェ・テミン)氏とは75年3月6日に大統領府で初めて会った。崔太敏氏が「陸女史が夢に現れた」と手紙を書き送ってきて、会うことになった。崔被告との縁もこのとき始まった。

■忍苦の18年

 朴・前大統領は、朴正煕大統領(当時)が亡くなった直後の79年11月21日、妹・槿令(クンリョン)と弟・志晩(チマン)を連れてソウル・新堂洞の私邸に戻った。その後、90年代末まで18年間、ほとんど対外活動をしなかった。盧泰愚(ノ・テウ)氏を中心とする「新軍部」の朴正煕格下げ運動などのため、裏切られたという気持ちを極めて強く抱いていた時期だった-と、後に回顧している。自叙伝には、この時期を振り返って「権力は、ある瞬間、風のように消えてしまうので虚しい」と記した。88年から、父親の功績をたたえる内容のインタビューを積極的に受け始めた。朴正煕・元大統領の記念事業会も発足させた。朴・前大統領は「(父親の10周忌に当たる)89年は、何年も抱えてきた恨(ハン=晴らせない無念の思い)を解きほぐしたといってもいい一年だった」と語った。

 この期間も、崔順実被告との縁は途切れなかった。崔被告は、育英財団の付設幼稚園を江南に開設し、朴・前大統領が理事長を務めていた韓国文化財団の付設研究院の副院長などを歴任した。朴・前大統領は、検証などで崔氏一家のことが問題になるたび「困難に直面していた時期に私を助けてくれた縁」だと語った。

■政治への入門と第18代大統領当選

 朴・前大統領は97年の大統領選を前に、ハンナラ党(当時)へ入党した。続いて翌年4月の補欠選挙に大邱・達城から出馬し、当選した。ハンナラ党副総裁になった朴・前大統領は、2002年の大統領選を前に、李会昌(イ・フェチャン)総裁のワンマン体制を批判して離党。「韓国未来連合」を立ち上げたが、大統領選の1カ月前に復党した。

 次いで、04年の総選挙でハンナラ党が危機に直面すると、朴・前大統領は「リリーフ」として登場した。党代表を選ぶ全党大会で「私には親も夫も子どももおらず、ただ大韓民国のみがある」と語り、「テント党舎」精神を足場に121議席を獲得した。以後、党代表として指揮した選挙に全て勝利し、「選挙の女王」と呼ばれた。06年の5・13地方選挙の遊説中、「カッターナイフテロ」に遭うも、病床で「大田は?」と尋ねて遊説に出かけた。当時の傷跡はまだ残っている。

 07年のハンナラ党大統領候補予備選では李明博(イ・ミョンバク)元ソウル市庁に敗れたが、「私・朴槿恵、予備選の結果をいさぎよく承服します」と語り、ハンナラ党の政権復帰に寄与した。11年12月には危機に直面していたハンナラ党の非常対策委員長を務め、党名を変更し、総選挙を指揮した。第19代総選挙では過半数の議席を確保して政権与党の大統領候補になり、年末の大統領選挙では51.6%の票を集めて勝利した。

 しかし、崔順実被告との40年にわたる縁が、朴氏の足を引っ張った。任期4年目の昨年9月、崔被告が介入した「ミル財団・Kスポーツ財団」疑惑がメディアで報じられると、「乱れ飛ぶ中傷と確認されていない暴露発言」だと語った。ところが崔被告関連の不正疑惑が相次いで確認されたことを受け、最終的に昨年10月25日、「韓国国民の皆様に深く謝罪いたします」と言い、その後も2度にわたって謝罪しなければならなかった。11月29日に発表した3回目の談話では「私の大統領職の任期短縮を含む進退問題を、国会の決定に委ねたい」と語ったが、野党側はこれを拒否。12月9日の本会議で弾劾訴追案が通過し、大統領としての職務が停止された。

ホーム TOP