「(日本が主張するアジア主義は)帝国主義を徹底的に発揮するため、侵略政策を実地に拡張するため、あらゆる権勢と強力を盾とし、仮面と虚飾で弱者を籠絡しようとするものにすぎぬ…(中略)…真心があるなら、自分の前科をまずは根本的に悔悟せよ。徹底的に改善せよ」(1924年7月3日付本紙社説)

 植民地時代に本紙が植民統治を批判し、記事や社説の削除・押収された紙面が新たに確認された。本紙は、創刊後に刊行した紙面をデータベースにまとめる過程で、これまで紙面が確認されていなかった36号・144面分を新たに発見した。このうち、1923年12月27日付と1924年7月3日・4日付の新聞で、記事・論説が削除されていた。これらの記事や論説は、朝鮮総督府が削除・押収した記事を日本語に翻訳して1932年に刊行した『諺文(おんもん、ハングルの旧称)新聞差押記事輯録(しゅうろく)』に収められている。1998年にLG城南言論財団が、この資料集を『日帝時代民族紙押収記事集』(チョン・ジンソク編)として刊行したことで、その内容が知られるようになったが、記事・論説が載っていた当時の紙面はこれまで確認されていなかった。

 1924年7月3日付1面冒頭に載っていて削除された「いわゆる大東亜の建設とは何か」という社説は、日本が韓国を強制併合する名分として掲げていたアジア主義が、実は帝国主義的侵略のための仮面にすぎないと厳しく批判した。アジア主義とは、西欧帝国主義列強に侵略されているアジアの国々や民族が力を合わせて対抗すべきだという主張で、19世紀後半に日本で台頭した。日本帝国の膨張という下心を隠して掲げた「アジアは一つ」という主張は、韓国・満州・中国、ひいては東南アジア侵略の名分として利用され、「大東亜共栄圏論」につながった。

 本紙社説は「(アジア主義が)東洋の民族に団結の力を与えたことがあるか…(中略)…それらは畢竟(ひっきょう)、帝国主義的侵略の背景としての、一種の魔術的な口車であった。永遠の禍根を培養するものであった。…(中略)…(日本は)文明を多少早くに会得したことを唯一の武器として、まず朝鮮を強圧し、満州・蒙古にまでも欲を抱き、侵略をやめなかった」と猛攻を加えた。そして、日本の韓国侵略を直接的に批判した。「馬関条約(日清講和条約)において朝鮮の独立を日中両国で宣言し、日露戦役は東洋の平和と朝鮮の保護を標榜(ひょうぼう)していたにもかかわらず、結局その野心と詐計は現実のものとなり、日韓の合併は出現した。にもかかわらず、まだアジア主義だの東洋の平和だのを口にするのは、むしろ滑稽甚だしいことではないかと思えよう」と皮肉った。

 1923年12月27日付3面に載っていて削除された「爆弾を多数押収」という記事は、有名な独立運動家だった義烈団員・金始顕(キム・シヒョン)の弟、金禎顕(キム・ジョンヒョン)が上海から帰国したものの、東大門の外で鍾路警察署に逮捕され、捜査の過程で爆弾およそ100発を持って戻ってきた別の人物が摘発されて爆弾は押収、容疑者は追跡中という内容だった。この事件は、金始顕が23年3月に朝鮮へ潜入し、京畿道警察部のファン・オク警部などと共に日本の要員の暗殺を図ったものの摘発され、独立運動家およそ10人が逮捕された直後に発生した。「ファン・オク警部事件」は、昨年公開されて750万人の観客を動員した映画『密偵』の素材にもなった。

 1924年7月4日付3面に掲載されていて削除された「組織的かつ規則的なインド人の独立運動」という記事は、中国の『民国日報』に載っていたボンベイ特派員の記事を要約したもの。英国の統治下にあるインド人は、絶対的に民族独立を主張し、普通選挙によるインド連邦共和国建設を目標にしており、その実行方策は納税の拒否、労働組合の組織およびストライキ、政治犯の釈放要求などだと細かく紹介していた。

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