町の入り口に「日本磁器発祥の地」と書かれた表示板が見えた。佐賀県、有田市。4月9日、本紙主催の「日本の中の韓民族史探訪」に参加した小・中・高校の教師243人と共に現地を訪れた。

 「こんにちは。私は14代李参平(イ・サムピョン)です」。改良韓服(日常生活で着やすいようにデザインされた韓服〈韓国の伝統衣装〉)を着た初老の男性は、はっきりした韓国語であいさつした後、一族の来歴について細かく話してくれた。

 始祖は忠清南道公州出身の陶工・李参平(?-1655)。壬辰(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)が終わるころ、海を渡った。有田を含む肥前国(現在の佐賀県)の領主だった鍋島直茂が朝鮮侵略から撤収する際、李参平を連れていった。李参平は有田東部の泉山で良質の白土を発見し、日本で初めて白磁を作った。

 李参平は死後、日本の神になった。李参平の死からわずか3年後の1658年、有田の人々は「陶山神社」を建て、李参平を神として祭った。1917年には町の中の丘に「陶祖・李参平碑」を建てた。毎年4月末には陶磁器の祭典が開かれる。115回目となる今年は4月29日から開かれている。人口2万人程度の小さな町に、200万人の観光客が押し寄せる。5月4日には陶祖祭を執り行う。第14代李参平は「子孫として、韓日友好に力を尽くす」と語った。

 李参平が壬辰倭乱当時20歳だったと仮定すると、彼は83歳まで生きた。日本へ渡ったのは20代半ばごろだった。巨匠というにはまだ若かった。朝鮮に残っていても、人並み外れた努力で明らかに大家となったことだろう。しかし、その名が歴史に残った可能性はほとんどない。寡聞のせいでもあるが、朝鮮の陶工で名を残した人物というのは思い当たらない。

 李参平が作った華麗な彩色磁器は、欧州に売られていった。陶山神社の記録によると、1650年に145個が初めて輸出された。9年後にはオランダが5万6700個を輸入した。明清交代期の混乱を避け、中国の景徳鎮に代わって日本からの輸入に切り替えたのだ。バン・ゴッホなど印象派の画家たちは、陶磁器の包み紙の浮世絵を見て影響を受けた。

 李参平が海を渡らなかったら、こういった世界史的交流は起こらなかっただろう。陶磁器の輸出で蓄積した富を基に近代化を成し遂げた日本が、結局は侵略に向かったという批判もある。それは李参平の過ちではない。産業を「末業」と見なして権力闘争に没頭し、朝鮮の「李参平」を育てられなかった韓国側のせいというべきだ。

 朝鮮の陶工・李参平を陶祖とたたえる日本に、むしろ感謝せねばならないだろう。政治闘争に気を取られて今も顧みられない、未来の「李参平」がいるかもしれない。陶祖が故郷に戻らなかった理由があるのだろう。

李漢洙(イ・ハンス)文化第1部次長

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