韓国初の四つ星将軍であるペク・ソンヨプ予備役陸軍大将が、少し前に数え年100歳で世を去り、国立大田顕忠院に葬られた。ところが彼には、まだ最後の戦いが残っているようだ。「親日附逆者」(親日派)論争だ。与党は、顕忠院に葬られた親日派の墓を掘り起こそうという「親日派破墓法」まで予告し、老兵の最後の旅路を落ち着かないものにしている。

 世界のどの国であれ、「対敵協力者(collaborator)」をたたえるところは当然ながら無い。ならば、ペク将軍が本当に対敵協力者だったかどうかのみ問えばよい。難しいことではない。対敵協力者とは何者で、ペク将軍が本当に協力活動をしたのかどうかを見ればいい。

 対敵協力者とはもともと、戦時に自国へ侵攻してきた敵国を助けた人々を意味する。動機や状況は重要ではない。ペク将軍は1940年代、満州国軍の間島特設隊の将校として服務した。ところで後期間島特設隊は、(ペク将軍の祖国である)韓国を相手に戦った部隊ではない。実際のところ当時、韓国は存在もしていなかった。ペク将軍は日帝統治下で育ち、20代の男性であるほかの朝鮮人と同じく、日本が繰り広げる戦争に動員された。同時に、ペク将軍は6・25戦争の英雄だ。彼の将軍としての勇気と影響力は格別だった。反対派は、解放後に親日派の清算がきちんと行われていない状態で6・25戦争が起こり、親日軍警を一掃できなかったことが残念だと指摘する。だがそれは(戦争の英雄に対する)嫉妬にすぎない。

 ペク将軍が対敵協力者ではない理由は、大別して三つある。

 第一に、先に記したとおり、日本の軍隊で服務したというのは対敵協力の証拠ではない。満州帝国軍は韓国に侵攻せず、ペク将軍も自国民に銃口を向けなかった。間島特設隊は主に中国共産党ゲリラを追い、ペク将軍は敵をほとんど見ることもできず、実際に戦闘を経験することもなかった-と回顧した。

 第二に、今の反対派が悪用している対敵協力の基準は、韓国政府自ら立てた原則にも背く。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権で作った日帝強占下強制動員被害真相究明委員会は、第2次世界大戦時に連合軍捕虜収容所で日本軍の看守として働き、過酷行為に及んだという理由で戦犯に分類された朝鮮人83人を赦免した。彼らは身分がそうであっただけで、実際に戦犯と見なせる行為はしなかった、というのが理由だった。ならばペク将軍にも同じ基準を適用すべきだ。間島特設隊に所属していただけで、親日附逆(反逆)行為はしなかったのだから。何をしたかではなく、もともとの身分がどうであったかを取り上げて処罰するのは、北朝鮮で起きていることだ。民主国家である韓国ではあり得ない。

 第三に、ペク将軍の反対勢力は「国家とは何か」をあらためて考えさせる。彼らは、運動場を移し替えて論争を繰り広げる。ちょっと考えてみよう。国とは、われわれが自らに聞かせる物語だ。自分たちのアイデンティティーを確立し、価値を打ち立て、愛国心を呼び起こす経験の総体だ。ペク将軍が幼かったころ、韓国はまだ生まれもしておらず、25歳のときに解放されたが、すぐに二つに分断された。後に彼は命を懸けてその半分を守り、その時点で韓国はやっと建国18カ月にすぎなかった。

 戦後の政治的左派は依然として、1920年代日帝強占期の、実体も明らかでないその国に執着している。それは、厳密に言えば想像の中に存在する祖国だ。その後に「漢江の奇跡」を成し遂げて豊かな国を興した、韓国の実際の物語とは隔たりがある。そんな想像上の国家観を強要する過程で、彼らはありとあらゆる騒動を引き起こしている。友好的な貿易相手国・日本を悪魔に仕立て、世界最悪の国家である北朝鮮にはこの上なく親切にする。こんな価値観の中で生きていると、日帝強占期に日本軍所属だった朝鮮人は全員親日派であって、戦犯でもあり得る。となると、日本軍に徴集された朝鮮人は全員銃殺隊の前に立たせなければならない。

 今、韓国ではこうした二つの国家観が衝突している。韓国政府には、こうした論争を解消すべき義務がある。指導者ならば、韓国とはどういう国であって何が歴史的真実か、国民に説明して同意を求めなければならない。

 ある程度説明がなされたなら、今度は韓国国民が、韓国をあるがままに見つめなければならない。そして、本当に尊敬される軍人の一人を失ったという事実を受け入れるべきだ。ペク将軍の遺体を大田から国立ソウル顕忠院に移すという案も検討されれば、と思う。彼がそこで、本当に穏やかに眠れることを望む。

マイケル・ブリーン=ソウル外信記者クラブ元会長

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