▲李気乙・延世大学名誉教授

 2020年4月、康京和(カン・ギョンファ)外相のしゅうとに当たる李気乙(イ・ギウル)延世大学名誉教授の独立有功者褒賞申請書が、非公開で国家報勲処に受理された。この事実は後になって判明し、6月に報道された。それから5カ月が過ぎた2020年11月、李名誉教授は中央高等普通学校在学中の1941年に「5人読書会」活動を行って韓国史を勉強し、日帝を批判した功績が認められ、抗日有功者として登録された。李名誉教授が10月13日に数え年97歳で世を去ってから1カ月後のことだった。

 取材の過程で5人読書会関連の資料を調べてみたところ、李気乙生徒だけでなく彼の校長先生も目に留まった。読書会の生徒らが逮捕されても起訴猶予で釈放されると、朝鮮総督府は、生徒らを退学させようとして学校に圧力をかけた。しかしこれに最後まで立ち向かったのが校長だった。校長は総督府の学務局を何度も訪れ、「退学させたら子どもたちは道に迷う」と退学指示の撤回を粘り強く要請した。校長は生徒のため、総督府の侮辱的な待遇も甘受しつつ交渉を続けた末、5人のうち4人はすぐに復学し、残る1人は5人読書会事件の責任を問い1年遅れで復学するという「折衷案」を引き出した。そのおかげで李気乙生徒は学校を卒業することができ、延禧専門学校へ進学し、後に延世大学で経営学の教授になった。

 だがこの過程で総督府に出入りした校長を巡り、一部では彼を「親日派」だと指弾した。校長は、早くから三・一運動の民族代表48人中の1人として参加したほど独立運動に人生を懸けた人物だった。だが民族資本で立てた学校を劣悪な環境の中でなんとか維持し、生徒たちを勉強させるため、校長は泥沼のような現実に足を突っ込むしかなかった。すさまじい剣幕の総督府と難しい交渉を繰り広げる校長をけなす人はいたが、肝心の彼の仕事を代わりに務めようという人はいなかった。校長の名は、2009年に『親日人名辞典』に載った。

 李気乙教授は、85歳だった2008年に母校を訪れ、「(あのときこの学校と先生が自分を)総督府の退学処分から守ってくれなかったら、こんにちの自分はなかっただろう」として少なからぬ額のお金を寄付した。こうしてその校長先生の名前を付けて作ったのが「玄相允奨学金」だ。玄相允(ヒョン・サンユン)は親日派なのだろうか? さもなくば、親日派という指弾を進んで甘受しつつ抗日・国益の未来世代を育てた殺身成仁の教育者なのだろうか?

 日帝が朝鮮を強占していた年数だけでも36年になる。この歳月を生きた朝鮮人の大部分の生きざまは、親日と反日の二分法で分かつにはあまりにも複雑極まりないものだった。今の韓国人が知らないだけで、第2、第3の玄相允は数知れぬほど大勢いるのだろう。解放75年が過ぎた今も、故人の表面的な揚げ足を取って「親日派」「土着倭寇(わこう)」と追い立てる人が、われわれの周囲には依然として多い。韓国外交を引っ張る康京和外相も、「抗日」のしゅうとを守った恩師を単に「親日」と一刀両断するだろうか。

ノ・ソクチョ記者

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