【新刊】エズラ・ボーゲル著、キム・ギュテ訳『中国と日本』(カッチ刊)

 1978年10月、トウ小平が日本を訪問した。福田首相との会談でトウ小平は、日本が唐から輸入した文物に言及しつつこのように語った。「今や教師と生徒の役割は変わった」。文化大革命の混乱を収めて改革・開放を準備していたトウ小平は、今では中国が日本の技術と資金、経験を学ぶ立場にあるという事実をはっきりさせた。

 2020年末に90歳で他界したエズラ・ボーゲル・ハーバード大学名誉教授は、著書『現代中国の父 トウ小平』『ジャパン・アズ・ナンバーワン-アメリカへの教訓』といったベストセラーを世に送り出した東アジア研究者だ。彼が世を去る直前の2019年に出版した『中国と日本』(China and Japan:Facing History)は、20世紀後半に世界の超大国へと浮上した両国の協力と葛藤の歴史を、1500年前までさかのぼって追跡する。

 ボーゲルは、日本が中国文明の基礎を学んだ7-9世紀、中国から日本から学んだ1895-1937年と1972-92年という三つの時期に注目する。大和政権が西暦600年に中国へ最初の外交使節団(当時は遣隋使)を派遣してから、最後の遣唐使が派遣された838年までが第1段階だ。日本は仏教や儒教、律令や統治システム、文学や音楽、建築を中国から受け入れた。遣唐使と留学生、僧侶などが大挙して中国に押し寄せ、中国の僧侶、学者、商人らが日本に渡ってきた。

 ボーゲルは、こうした文化的共通基盤が両国の共感を高める土台だと語る。754年に奈良の東大寺へ到着し、大仏の奉献式を主管して(原文ママ)日本の僧侶を教えた唐僧、鑑真がその代表的な例だ。鑑真が亡くなった後に弟子たちが作った等身像は、日本の国宝に指定されるほど芸術性に優れていた。1980年に中国がこの等身像を鑑真の故郷の寺に迎えると、日本の仏教徒らは、鑑真が教えた日本の寺にあった8世紀の石灯を友好の象徴として送った。両国国民が友好の増進を望むとき、過去は貴重な資産となる。

 838年に最後の使節団が日本をたった後、1862年に日本代表が上海に到着するまで、中日関係は基本的に商人が引っ張る貿易を軸として回っていった。1403年から1547年まで遣明船が派遣され朝貢使節が往来したが、その後、公式接触は途絶えた。両国の関係は、1894年の日清戦争を迎えて劇的に変わった。中国は官僚や留学生を日本へ送り、明治日本の開発経験を学ぼうとした。毎年数百人の官僚が日本を訪れ、数百人の日本人教師やアドバイザーが中国で活動した。1937年までにおよそ5万人の留学生が海を渡った。中日関係を破綻に追いやったのは1931年の満州事変と、37年に始まった日中戦争だった。

 1972年9月27日、田中角栄首相が北京で周恩来首相と会談したことで変化が始まった。78年のトウ小平訪日は交流の水門を開けた。トウ小平は、公式な平和友好条約の文書交換と共に、秦の始皇帝時代に徐福が求めた「霊薬」を探しに来た、と語った。その霊薬とは現代化を実現する秘訣(ひけつ)だと説明した。東アジアでは2000年前の歴史が現代とつながっている。日本政府が引き留めたにもかかわらず、トウ小平が自宅軟禁状態の田中角栄を訪問したことも注目に値する。田中角栄はロッキード事件の汚職スキャンダルで検察の捜査を受けている最中だった。田中角栄と会ったトウ小平は「水を飲むとき、井戸を掘った人々のことを忘れることはできない」と語った。トウ小平は、両国関係改善のため田中角栄が努力したことを覚えており、謝意を表した。

 ボーゲルは、歴史学者ではなく社会学者だ。現代社会を生んだ政治的、経済的、社会的構造を追跡するため、歴史的アプローチを選んだにすぎない。専門的歴史学者としての訓練を受けたことはないと告白している通り、漢文の1次資料を読むこともできない。そんな弱点を、当該分野の研究者らの成果を頼ることで突破した。それでも、1500年という長大な歴史から現代の中日関係を作る骨組みだけを選び出し、伝える手際は実に「巨匠」らしい。だが、あまりにも楽観的だ。日本には過去史に対する反省を求め、中国が反日感情を愛国心マーケティングとして活用しないことを注文してはいる。中国が推進する「一帯一路」事業や環境問題解決のための共同プロジェクトで協力を拡張すれば、両国は「熱い関係」ではなくとも「温かい関係」程度は維持できるだろう-と見込んでいる。中日間の密接な接触は米国にとって問題にならないだろうとも考えた。しかし現在展開している国際秩序は、ボーゲルの楽観とはいささか隔たりがあるようだ。592ページ、2万7000ウォン(約2630円)。日本題は『日中関係史ー1500年の交流から読むアジアの未来』。

金基哲(キム・ギチョル)学術専門記者

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