▲韓国カトリック初の殉教者である尹持忠の遺体の一部。第5頸椎に斬首された痕跡(円内)が見られる。鋭い物で切断されたと推定される「鋭器損傷」が残っている。/写真=カトリック全州教区提供

 韓国カトリック初の殉教者である尹持忠(ユン・ジチュン)パオロ=1759-91=と権尚然(クォン・サンヨン)ヤコブ=1751-91=の遺体が全羅北道完州郡の「草南イ聖趾(し)」で発見された。1791年の辛亥(しんがい)迫害で殉教してから230年ぶりのことだ。尹持忠の弟で、1801年の辛酉(しんゆう)迫害で殉教した尹持憲(ユン・ジホン)フランシスコ=1764-1801=の遺体も併せて確認された。これまで彼らの墓の正確な位置は分かっていなかったが、「草南イ聖趾パウベギ聖域化」事業の最中に発見された。カトリック全州教区長の金仙泰(キム・ソンテ)主教は1日、遺体発見の事実を発表するとともに「韓国殉教史の始まりとなる方の遺体を見つけた記念碑的事件」「金大建(キム・デゴン)、崔良業(チェ・ヤンオプ)神父生誕200周年に当たる年に、神からの大きな大きな贈り物」と語った。

 殉教者の遺体は今年3月11日に発見された。聖域化作業のため無縁故墳墓8基を改葬中、作業員が5号墓を2メートルほど掘り下げると「白磁沙鉢誌石」が出てきた。沙鉢(器、どんぶり)の内側には漢字で「尹公之墓」「俗名持忠、聖名保祿」などと刻まれていた。「保祿」は尹持忠の洗礼名「パオロ」の当て字だ。湖南教会史研究所長のイ・ヨンチュン神父は「銘文を見た瞬間、鳥肌が立った」と語った。230年間行方が分からなかった韓国カトリック初の殉教者の墓を確認した瞬間だった。3号墓からは権尚然の名前などが刻まれた白磁沙鉢誌石と遺体が出てきた。

 墓から尹持忠・権尚然の痕跡が見つかると、全州教区は各界の専門家からなる遺体の鑑識団を結成した。宋昌虎(ソン・チャンホ)全北大学医学部解剖学科教授、尹徳香(ユン・ドクヒャン)元全北大学考古文化人類学科教授と国防部(省に相当)遺骸発掘団のイム・ジョンミン鑑識官が加わった。一同は全北大学医学部・歯学部および獣医学科の教授と共に出土品の放射性炭素年代測定、遺伝情報調査と解剖学的鑑識も行った。調査の結果、性別はいずれも男性で、推定年齢は殉教当時の年齢と符合した。尹持忠・権尚然の大腿(だいたい)部側の骨を5センチ切って確保したDNAにより、Y染色体の父系確認検査(Y-STR)を行った結果、それぞれ海南尹氏、安東権氏の親族男性5人の遺伝情報と一致したという。また8号墓の遺体はDNA分析の結果、尹持忠の弟・持憲と判明した。

 遺体は、殉教当時の凄惨(せいさん)な状況を示していた。尹持憲は凌遅(りょうち)処死刑に遭い、遺体の第2頸椎(けいつい)、左右の上腕骨、左の大腿骨には鋭利な器具で切られた痕跡があった。両足の膝から下と両腕の肘から先の部分は発見されなかった。四肢を切られてばらばらにされたからだ。尹持忠と権尚然の遺骨にも斬首刑の痕跡が残っていた。

 3人の殉教者は名家出身のエリートだった。全羅道珍山(現在の忠清南道錦山)生まれの尹持忠は孤山・尹善道(ユン・ソンド)一族の子孫で、24歳のとき科挙に進士で及第した。父方のいとこに当たるチョン・ヤギョンによってカトリックに接し、姻戚の李承薫(イ・スンフン)から洗礼を受けた彼は、当時の北京主教が祭祀(さいし)廃止令を下したことを受け、1791年に先祖を祭る祭祀を廃止し、神主(先祖の位牌〈いはい〉)を燃やした。権尚然も同じく神主を燃やした。「廃祭焚主」と呼ばれたこの事件で、彼らは大逆の罪人として追及され、全州南門外(現在の殿洞聖堂跡)で処刑された。拷問を受け、信仰を捨てるよう要求されたが、最後まで応じなかった。3人の殉教者は2014年にフランシスコ法王が訪韓した際、列福された。福者は、カトリックで聖人の前段階に当たる。

 全州教区長の金仙泰主教は「最初の殉教者らの遺体と対面させてくださった神のご意志は、殉教者らが持っていた霊性を私たちも手本とすることにある」と語った。全州教区の関係者は「殉教者3人の遺体は完州の草南イ聖趾に用意された安置所に保管される予定で、今月16日から信者および一般の人々にも公開される」と語った。

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