▲9月6日、東京・台東区の上野広小路駅近くにあるパチンコ店の様子。/写真=チェ・ウォングク特派員

 9月6日午後、東京・台東区の上野広小路駅の出口から北西へ150メートルほど行ったところにあるパチンコ店「サイバースパーク」の出入り口は固く閉ざされていた。入り口には閉店のニュースと、会員が保管しているコインやメダルを交換する方法を伝える案内が張り出されていた。ガラス窓越しに店内をのぞくと、パチンコ台を撤去する作業員の姿が見えた。このパチンコ店は31年間ここで営業してきたが、経営難に耐えられず、8月31日に廃業した。ここから歩いて5分の距離にあるパチンコ店「ダイヤモンド」も39年にわたる営業を終え、同じく8月31日に門を閉じた。近所で営業を続けているパチンコ店「PIA」は客がほとんどおらず、閑散としていた。地下1階、地上4階のビルにパチンコ、スロットマシンなど670台を設置したが、台の前に座っている客の数は指折り数える程度だった。10-15台ずつ並べてあるパチンコ台が1列全て空いていることも多かった。

 日本の成人の代表的な娯楽にしてギャンブルゲームだったパチンコ産業が今、没落しつつある。主なパチンコ業者の本社が集まっていた上野は、1980年代から2000年代にかけては「パチンコの聖地」と呼ばれ、およそ30の店舗が盛んに営業していた。ところが現在、残っている店はたった三つ。全盛期の10分の1にまで縮小したのだ。経済の冷え込みとコロナ・パンデミックの長期化でパチンコ店を訪れる客は減り続け、経営難に耐えられず廃業する店が続出したからだ。東京・新宿駅の出口すぐ前で33年間営業してきたパチンコ店「グリンピース」は今年1月末に閉店し、「グリンピース」の向かいにあった「マルハン」新宿店は、その4カ月後に店を閉じた。

 日本におけるパチンコ業界の始まりと成長は、在日韓国人と深い関連がある。日帝強占期に日本へ渡ったものの、差別待遇を受けて仕事が見つからなかった朝鮮人は、射幸性が高く危険なパチンコ業界へ飛び込み、生計を立ててきた。作家ミン・ジン・リーのベストセラー『パチンコ』は、代々パチンコ店を営む在日韓国人家族の物語をつづった小説だ。現在、日本のパチンコ業のおよそ80%を在日韓国人とその子孫が営んでいるといわれる。300を超えるパチンコ店を運営する代表企業「マルハン」の会長も在日韓国人だ。

 パチンコが日本の代表的な余暇産業として位置付けられる中、1990年代にはパチンコを楽しむ日本人はおよそ3000万人に達した。日本の人口の4分の1がパチンコを楽しんでいたことになる。当時、営業店舗数は日本全域で合計2万店を超えた。「日本のどこへ行っても、コンビニはなくてもパチンコはある」とまで言われるほどだった。

 バブル経済がはじけたことで、パチンコ店を訪れる人は減り始めた。日本政府が2018年にパチンコの射幸性を大幅に下げる措置を施行すると、衰退の勢いはますます急激になった。パチンコやスロットマシンなどの毎月の獲得確率は従来のおよそ60%の水準に低下し、「大当たり」の可能性は半分ほどに減ったことで、パチンコ店を訪れる客は急減した。

 苦戦を免れないパチンコ業界にとって、コロナ拡大は致命的だった。パチンコは3密(密集・密接・密閉)の代表的な場所に挙げられた。「東洋経済」誌は最近、日本生産性本部の資料を引用し「2020年の全国のパチンコ市場規模は14兆6000億円で、前年比27%減となった」と伝えた。2005年の時点で年間35兆円だったのと比べると、実に60%も減っている。パチンコ人口も前年よりおよそ180万人少ない710万人で、歴代最低となった。全国のパチンコ店舗数(2021年12月現在)は8139カ所で、全盛期の半分以下だった。高尾や旭金属熱錬など中堅企業の連鎖倒産や大規模人員整理のニュースも続いた。この先、パチンコの没落はさらに加速する見込みだ-と日本メディアは伝えた。日本総合研究所の石川智久・上席主任研究員は「一部大手チェーンを除いて、パチンコ業界が生き残る可能性は極めて低い」と語った。

キム・ドンヒョン記者、東京=チェ・ウォングク特派員

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