「鼻のないゾウ」は、今年の光州ビエンナーレで最も人気を集めた作品だ。小学生はもちろん中高年の人々まで、白、ピンク、薄緑で塗られた大きなゾウの造形物を触ってみて、不思議がりながら写真を撮っている。

 ゾウなのに鼻がないからだ。「見る」とは何であるかという話題を巡り、アーティストのオム・ジョンスンは、視覚障害の子どもたちと一緒に生きているゾウを触ってみて、においをかぎ、鳴き声を聞いてみた後、その形象を粘土で作ることにした。ある子は、ゾウに餌をあげる手がゾウの鼻に吸い込まれたせいでゾウがくしゃみをして、鼻水が飛び散るという騒動を経験した。その子はゾウを、真空掃除機のホースのような形に作り上げた。

 見えているからこそ逆に偏見にとらわれるのではないか、と反問するこの作品は、光州ビエンナーレが制定した「朴栖甫(パク・ソボ)芸術賞」の最初の受賞対象に選ばれた。ステージ3の肺がんで闘病を続けている91歳の単色画の巨匠・朴栖甫は、ほぼ無名に近かったアーティストに賞金10万ドル(現在のレートで約1440万円)を渡して「初の受賞者が韓国人女性でうれしい」と語った。

 しかし、この心温まる光景は、もはや見ることはできなくなった。制定第1回のみで、朴栖甫芸術賞は廃止されたからだ。韓国美術界の一部のグループや市民団体は、開会式にゲリラ的に姿を現して「光州精神に泥を塗る朴栖甫賞を廃止せよ」と叫んだ。軍部独裁時代に沈黙していたというのがその理由だ。一部の批評家も加勢した。実験的かつ前衛的で挑発的な作業を通して芸術談論の枠組みを提示すべき光州ビエンナーレが、朴栖甫の作品1点の価格でビエンナーレの権威を売り渡した、と批判した。ビエンナーレ側は「大物アーティストにどこまで恥をかかせることになるかと心配で、廃止を決定した」と釈明した。

 皮肉なのは、こうした騒動と非難にもかかわらず、今年の光州ビエンナーレは観客から「過去最高」という賛辞を集めていることだ。楽しみやすく、温かみがあったからだ。赤い鉢巻を締めて拳を振り回す掛け絵でないとしたら、どういう意味なのか到底分かり難い映像作品、難解な設置作品が並び、観覧そのものが拷問だったかつてのビエンナーレとは違っていた。

 殺伐とした政治スローガンが抜けた場は、ウイットと寸鉄、省察で満たされた。土の香り漂う森の中に水の精霊たちが出てきて、傷だらけになった心身を癒やしてくれるようなアフリカのアーティストの「霊魂降臨」をはじめ、植民支配と強制移住のつらい歴史を、幼い子どもが描いたような澄んだ淡泊な色彩に昇華させたカナダのイヌイット原住民らの絵画まで、地球上で生きていくさまざまな民族の暮らしと哲学、苦難に打ち勝つ知恵を満喫できる諸作品を見ながら、観客は久々に芸術が与える癒やしを経験した。

 芸術監督を務めた李淑京(イ・スクキョン)さん=テート・モダン(Tate Modern)国際アート部門シニア・キュレーター=の功績が大きかった。李さんは「観客が作品を鑑賞しながらニュースを見るような、そういうのでなかったらうれしく思う。日常においては政治的要求も重要だが、芸術家だけができる、芸術の力でほぐせるものも多い」と語った。今年の光州ビエンナーレのタイトルも「水のように柔らかく弱々しく(soft and weak like water)」だ。老子道徳経の「柔弱於水」から取ったこの言葉は、5・18民主抗争43周年を迎えて「抵抗」から「和解」「許し」へと転換していく光州精神を示すかのようだった。マレーシアのアーティスト、パンクロック・スーラップ(Pangrok Sulap)が、5・18市民軍に渡す握り飯をバラの花に変えて描いた「光州、花咲く(Gwangju Blooming)」の前で、多くの人が胸を打たれて立ち止まった理由もそこにある。

 その枠組みから見れば、朴栖甫芸術賞の廃止は稚拙だった。1980年代にとどまって未来を開くことのできない自閉的集団の扇動にして我執だった。朴栖甫も、一時は前衛芸術、アバンギャルドのトップランナーだった。「国展(大韓民国美術展覧会)」に反対し、反政府的作品だといわれて展示場から撤去された前歴もある。しかし、民衆美術が支配的だった80年代韓国画壇の閉鎖性から抜け出し、現代美術が向かうべき方向を提示した盟主でもあった。李禹煥(イ・ウファン)、尹亨根(ユン・ヒョングン)と共に、単色画を世界の舞台で認めさせた一等功臣だ。巨匠になるまで栄辱の歳月がないアーティストがいるだろうか。作品の価格が数十億になると、芸術は資本の侍女に転落するというのか。彼らの古い論理の通りであれば、金煥基(キム・ファンギ)やナム・ジュン・パイク(白南準〈ペク・ナムジュン〉)など、どんなアーティストも美術賞を作ることはできない。

 デモのニュースに接した朴栖甫は、フェイスブックにこう記した。「何の意見もないより、はるかに良い現象だ。歴史は反動し、発展する。だがこの主張には熾烈(しれつ)さがない。事実関係も正しくなく、思惟(しい)の痕跡も読み取れない。もっと学ぶべきだ」

 オム・ジョンスンが10年以上も掘り下げてきた「鼻のないゾウ」プロジェクトは、「群盲象を評す」の寓話をひねったものだ。オム・ジョンスンは「視覚は、さまざまな感覚の中の一つでしかない。芸術とは触覚、嗅覚、聴覚など五感と色覚が全て一緒になって作り出すもの、という事実を示したかった」と語った。自分が目で見たものだけを真実と言い張り、それと異なる意見を出すと敵と見なして断罪しようとする人々が、かみしめるべき言葉だ。彼らは芸術家でも何でもない。

金潤徳(キム・ユンドク)先任記者

ホーム TOP