▲写真=李漢洙(イ・ハンス)文化部長

 「李庸岳(イ・ヨンアク)文学賞」が存在することを最近知った。今年で5回目になるのだが、寡聞故に、今になってようやく知った。12月に授賞式が開かれる。主催側は「李庸岳の作品は、日帝強占期の空間で収奪される貧しい民衆の暮らしを、土俗的な基盤の上に、精密な言語感覚でしっかりした叙事を形成しつつ突き進んでいった」とし「漂浪する李庸岳の名で文学賞を制定することは、分断時代の忘れられた韓国詩史の符節を完全に一致させてみようとする一歩の努力」と表明した。

 主催側の評価は大きく外れてはいない。李庸岳(1914-71)は日本留学に出かけて、23歳だった1937年に初の詩集を出し、土俗的な朝鮮語で詩語を練り上げる天才詩人として注目された。同年代の徐廷柱(ソ・ジョンジュ)=1915-2000=、呉章煥(オ・ジャンファン)=1918-51=と共に「三才」と評された。詩人の金芝河(キム・ジハ)が暗唱していた「恋しさ」「オランケの花」「全羅道の女の子」といった詩は、およそ80年が経過した今読んでもじんと胸を打つ。

 主催側は、しかし、重要な事実を明かしていない。李庸岳が1950年以降に書いた詩は「土俗的な基盤」や「精密な言語感覚」とは遠く隔たったものだ。北で朝鮮文学同盟詩文科委員長を務めた李庸岳は、6・25戦争と金日成(キム・イルソン)を称賛・称揚する詩を山のように書いた。「星すら目を瞑(つぶ)る暗黒の夜も/泣くのを止(や)めてとぼとぼついて行った/小さな子らの胸の中で、星の光より恋しかったであろう/金日成将軍!/(中略)/白い紙に真っ赤なインクで/若い女学生は真心尽くして/同じ文字をこつこつ一日中書いた/朝鮮民主主義人民共和国万歳!」(『平壌へ、平壌へ』、1951年)

 やむを得ないことだったのかもしれない。彼が置かれた具体的な状況を知り得ないので、下手に断定することはできない。だが、越北詩人が皆、彼のように露骨な称賛の詩を書いたわけではなかった。解放前は名声が一層高かった詩人・白石(ペク・ソク)=1912-96=は、北で「元帥様」を褒めたたえる童詩を書きもしたが、その後は農場の労働者として暮らし、およそ40年にわたり筆を折った。小説家の朴泰遠(パク・テウォン)、李泰俊(イ・テジュン)、安懐南(アン・フェナム)は北の政権に積極加担はしなかった。詩人の林和(イム・ファ)、小説家の金南天(キム・ナムチョン)、文学評論家の李源朝(イ・ウォンジョ)は1950年代に粛清された。逆に李庸岳は、詩人の金史良(キム・サリャン)、朴八陽(パク・パルヨン)、小説家の李箕永(イ・ギヨン)などと共に北の政権に積極加担した(チョン・ジンソク『戦争期の言論と文学』)。

 李庸岳文学賞はいけない、と言いたいのではない。公共の資産である税金を使わずに文学愛好家らが自ら一詩人をたたえるのを、妨げる理由はない。しかし、韓国社会に深く根を下ろしている偏向性はどうしても指摘せねばならない。李庸岳が北で書いた詩まで網羅して2018年に出版された『李庸岳詩全集』は、編者の言葉で「暴圧的な全斗煥(チョン・ドゥファン)軍事政権を引き継いだ軍出身大統領の盧泰愚(ノ・テウ)」「李承晩(イ・スンマン)反共独裁からの連続だった朴正煕(パク・チョンヒ)鉄拳統治下の厳酷な歳月」を適示しつつ「越北以降の作品まで合わせて『李庸岳詩全集』を今ようやく出すというのは、それ故に遅くなったのだとしても随分遅い」と記した。6・25戦争を起こした戦犯で世界最悪の世襲独裁については、一言も言及しなかった。

 李庸岳が北で活動した部分には寛容な姿勢を取り、解放前の詩の世界を別途取り上げて高く評価することはできる。だが、そうした幅広い寛容を、大韓民国で活動した文化芸術人にはなぜ適用しないのか。韓国文学を豊かにする上で李庸岳よりもはるかに寄与した徐廷柱については、一時の行いを執拗(しつよう)に問題視して、ついには「未堂文学賞」を無くしてしまった。今年10月に他界した単色画の巨匠、朴栖甫(パク・ソボ)は、私財を投じて「朴栖甫芸術賞」を作ったが、一部の団体が「維新政権に抵抗しなかった」という理由で攻撃し、結局たった1回で廃止された。韓国社会に深く渦巻いている巨大な歪曲(わいきょく)と偏向は深刻なレベルだ。

李漢洙(イ・ハンス)文化部長

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