韓国の裁判所が李在明(イ・ジェミョン)大統領の裁判をまるで服についたほこりでも払うかのように払い落としている。李大統領を巡る5件の裁判は、今月中に全て中止される見通しだ。選ばれた大統領を在任前の事件と関連した裁判に追いやることが正しいと主張するわけではない。現実的にも不可能だ。裁判所が裁判という責務をそうやって投げ出すことが正しいのかという問いかけだ。この問題に目をつぶることは、韓国政治の暴力性に目をつぶるに等しい。

 国民の認識は素朴だと思う。今回の大統領選の出口調査では、選挙結果に関係なく李大統領の裁判は継続すべきだという意見が60%を超えた。選挙から1カ月以上が過ぎたが、そう考える国民はまだ多いことだろう。なぜ大統領選での候補支持率と大差が生じるのか。多くの国民は大統領の裁判を政治ではなく法の問題ととらえているからだ。

 国民は近代の平等の理念が「法の下の平等」であることを知っている。特権も差別も排除し、全ての人間を同じ法律の前に立たせることが近代民主主義の歴史の全てだと言っても過言ではない。韓国憲法の冒頭にも「全ての国民は法の下で平等だ」という条文がある。国民の60%は「法は誰に対しても平等でなければならない」という民主主義の常識を述べているのだ。

 裁判所による裁判の中断はそうした常識から外れる。勿論皆が同じであるはずはない。国政の安定と権威の確保が重要な大統領がそうだ。憲法84条は「内乱罪または外患罪を除き、大統領は刑事訴追されない」と定めている。「大統領不訴追」は憲法の精神を逸脱する極めて例外的な特権だ。当然そんな特権を安易に拡大してはならない。

 裁判所は李大統領の裁判を中断することについて、「憲法第84条に基づく措置です」(14字)とした。この14字が全てだ。「裁判の中断」がなぜ憲法84条に伴う措置なのかだけでなく、憲法84条がどんな内容なのかにさえ言及していない。ある裁判所は憲法にも言及せず、「国政運営の継続性を保障するため」だとして裁判を中断した。憲法84条「訴追」の範囲に辞書的意味が異なる「裁判」まで含めることができるかどうかは簡単な問題ではない。ところが、説明はこれが全部だ。極端に言えば、14字で解釈による憲法改正を行ったことになる。そして黙って受け入れろと言う。

 法解釈が文言の意味を外れることもあり得る。しかし、その場合も解釈の限界を超えてはならない。憲法は特に厳格だ。尹錫悦(ユン・ソンニョル)前大統領の悲劇は憲法が戒厳要件として定めた「国家非常事態」の規定を拡大解釈したことが発端だった。その結果、尹前大統領は弾劾され、法廷に立ち、警察、検察、高位公職者犯罪捜査処(公捜処)に続き、特別検事による捜査を受けている。憲法解釈はそれだけ厳しいものだ。判事が解釈の限界を逸脱すれば、それは立法行為となる。

 裁判所は裁判を行うために存在する。有罪であれ無罪であれ、裁判を進めればよい。政治の心配は裁判所の仕事ではない。共に民主党が大統領裁判中止法を可決すれば、裁判は中断される。大統領が裁判所に呼ばれることはない。判決で引きずり下ろされることもない。そうなればこういう問いが出るだろう。「どのみち結果は変わらないのに、中断される裁判をなぜ続けなければならないのか」と。韓国社会を支配する後進的便宜主義だ。

 まず、政治的な面で異なる。裁判所が裁判中断を認めることと民主党が法案成立を強行することは同じであるはずがあろうか。法的にも異なる。裁判所による措置とは異なり、民主党による立法は憲法裁判所の審判を受けなければならない。その過程で国民は絶えず法の常識を問うだろう。何よりも誰が見てもこの法律は一人のための法律だ。前代未聞でこれからもないだろう。権力を手にしたからといって、こんな法律をつくってもよいのか。大統領の裁判問題は「法の下の平等」という理念に自動的に行き着く。本質的に政治ではなく法律の問題だからだ。憲法裁の判断は重要だ。さらに重要なことは、論争と法理を通じて公論を形成する過程だ。ところが、裁判所は全てを失った。裁判という本質的な責務と同時に、自身の権威と威信、民主的プロセスと法的成熟の機会をいずれもなくしてしまった。

 裁判所が置かれた立場を知らないわけではない。 曺喜大(チョ・ヒデ)大法院長と池貴然(チ・グィヨン)判事、裁判所と司法体系に対する政界の攻撃は狂気であり暴力だった。文在寅(ムン・ジェイン)政権にいよる司法機関捜査と金命洙(キム・ミョンス)大法院長の時代を経て、裁判所内部も分裂し傷ついた。法と裁判所を守る市民社会も元老グループも韓国には存在しない。自分たちの陣営を裁いたらひどい目に遭わせてやると怒る人々が全国の裁判所の塀の外に陣取っている。判事が原則を守っていれば、自分とその家族がどんな目に遭うか分からない。

 それでもこれは間違っている。裁判所関連のニュースで耳を疑った点がある。大法院が李在明候補の公職選挙法違反事件で上告審を強行すると、一部判事が「裁判所の政治的中立」という問題を提起したことだ。裁判をやるなというのだ。裁判官は法の専門家であり守護者だ。法を法に則って見つめ、誰であれ裁判を受けるべきだと信じる60%の国民よりも彼らの憲法精神は優れているのか。誰が法の守護者なのか。裁判と政治を区別できない判事たちが法の権威を地に落とした。マスコミは是非を論じるために、裁判所は裁判をするために存在する。政治にお節介な心配をするな。裁判を放棄した裁判所は閉鎖しろ。

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員

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