▲全羅南道珍島沖のウルドルモク(鳴梁)には、決戦を待つ忠武公李舜臣の銅像が立っている。/写真=朴鍾仁記者

■東郷平八郎本人の記録

 1921年に東郷平八郎の参謀を務めていた小笠原長生(ながなり)が書いた『東郷元帥詳伝』には、李舜臣に関して東郷が語った言葉が出てくる。「半島古今の名将李舜臣」という言及だ。そうして、ネルソンに関しては、東郷本人が英国留学時代に受けた感銘が数回言及されている。

【写真】「東郷平八郎が李舜臣を称賛」説の始まり? 1955年3月31日付「朝鮮日報」コラム記事

 東郷がまだ存命中だった1930年に出た『東郷平八郎全集』では、「東郷とネルソン、二人は東西海戦史の名将」と評価されている。俗に言われる「私を李舜臣と比較するな」という言及はどこにも見られない。

 ならば、一番最初にこうした主張を行った朴殷植は何を見たのだろうか。朴殷植が『李舜臣伝』を執筆した1921年、佐藤鉄太郎という海軍中将がいた。大佐時代の1908年に佐藤が書いた『帝国国防史論』に、こんな記述が出てくる。「李舜臣は実に蓋世(がいせい)の海将である。不幸にして生を朝鮮に享(う)けたればこそ、勇名も智名も西洋には伝らぬのであるが(中略)『ネルソン』の如(ごと)きは其の人格に於て到底比肩することが出来ぬ」(佐藤鉄太郎『帝国国防史論』上、東京印刷、p401)。わざとでないなら、上海にいた朴殷植は、佐藤が書いたこの一文を伝え聞いて、佐藤と東郷を混同した可能性が高い。

■解放、確定してしまった東郷の称賛説

 ともかく、 植民地時代に増幅されていた「東郷平八郎李舜臣称賛説」は、解放と共に消えた。1954年12月13日付の「朝鮮日報」に載った「忠武公356周忌を迎えて」という、外部の人物によるコラムも、李舜臣をネルソンと比較しただけで、東郷平八郎の名前には言及していない。

 ところが3カ月後の55年3月31日付「朝鮮日報」に、ついにおなじみの文章が出現した。李教善(イ・ギョソン)という人物が寄稿したコラムのタイトルは「忠武公の日を制定しよう」だ。

「帝国ホテルで開かれた東郷元帥凱旋祝賀宴の席で、桂太郎首相から『東郷元帥の偉勲は朝鮮の李舜臣将軍と英国のネルソン提督に比するに値する』という要旨の祝辞があった。東郷は『私をネルソン提督に比することは辞退しようとは思わないが、李舜臣将軍に比することは到底、堪えられない』と言った」(1955年3月31日付「朝鮮日報」)

 これまで見てきた全ての記述の中で最も完成度が高い。この記事が、東郷称賛説に言及した解放後の最初の記述だ。「東郷平八郎が、李舜臣には似たいと願った」という1921年の朴殷植、「末次大将が、李舜臣をネルソンよりも名将だと演説した」という1935年の宋鎮禹の主張を、半分ずつ編集している。同日、「平和新聞」にも全く同じ内容の社説が載った。新聞社説なので執筆者名は出ていない。ならば、この「朝鮮日報」の寄稿記事を作り、「平和新聞」で社説を書くほどの影響力あるライター「李教善」とは何者なのか。「朝鮮日報」寄稿記事の末尾に、執筆者の身元が出ている。

■「執筆者は忠武公記念事業会理事長」

 ほかならぬ、忠武公の宣揚事業の指揮者が、「東郷は李舜臣を称賛した」と主張していたのだ。李教善はソウル大学副総長、国会議員や商工部(省に相当)長官などを歴任した。その後、ほとんど全てのメディアで、李舜臣を語る機会さえあればこの話がさまざまな形で編集され、無限に繰り返された。

 ところで、「平和新聞」の社説には「スペインの無敵艦隊を全滅させた英国のネルソン提督」という誤った内容が含まれていた。無敵艦隊と戦ったのはフランシス・ドレークの艦隊だった。ネルソンのトラファルガー海戦の相手は、ナポレオンのフランス艦隊だった。19年後の1974年、「京郷新聞」に、李舜臣に関する全く同じ間違いを含むコラムが載った。寄稿者は李瑄根(イ・ソングン)という人物だ。「無敵艦隊をトラファルガーの海上で打ち破ったネルソンは、英国政府から最高の礼遇を受けた。東郷は戦勝祝賀宴で『私は朝鮮の名将李舜臣に比べると下士官に過ぎない』と述べた」(李瑄根、「忠武公の国家観:429回生誕日にかみしめる」、1974年4月26日付「京郷新聞」)。執筆した李瑄根は74年当時、東国大学総長で、50年代に忠武公記念事業会に関与した人物だ。

 解放後、1950年代と70年代に「東郷が李舜臣を称賛した」と主張した人は、この忠武公記念事業会幹部らのほかにいない。海軍士官学校教授のソク・ヨンダルとキム・ジュンベは、このように結論を下した。「東郷平八郎が『自分は忠武公李舜臣に比し得ない』と言ったという話は、忠武公記念事業会が創作したものだった」(ソク・ヨンダル他、前掲論文)

■正されなかった歳月

 これが真実だ。忠武公記念事業会内部の人々が合作した神話は、その後、疑うべき理由すらない事実として固まった。民族の英雄・李舜臣に対して日本の英雄が投げかけた賛辞は、無批判的に受容され、拡散した。ついには1964年、先に紹介した日本の単行本でも、この話を出典なしに引用した。韓国海軍における李舜臣の精神的後輩として、東郷平八郎称賛説が虚構であることを立証した海軍士官学校のソク・ヨンダル、キム・ジュンベ教授は、このように結論付けた。

「歴史学者らの『ためらい』がかなりの部分で作用した。学者らはほとんど、李舜臣という人物が持つ重みに圧倒されたり、その重みに便乗したりして、長年にわたり真偽について沈黙し、傍観してきた。その結果、今では何が真実なのか区分することすら難しい状況がつくられてしまった」

 李舜臣の優れた戦略とリーダーシップは歴史的史料を通して立証されている。虚構と操作は害悪だ。事実だけが偉人を作る。

朴鍾仁(パク・チョンイン)記者

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