▲グラフィック=ヤン・ジンギョン
ロシアと戦争中のウクライナ軍は先月9日、ロシアに派遣された北朝鮮軍の兵士2人を捕らえて捕虜としたが、本紙は最近、ウクライナのある捕虜収容所で2人の兵士と面会した。ロシアに派遣されてウクライナの捕虜になった北朝鮮兵に対してメディアがインタビューするのは今回が世界初となる。捕虜のうち1人は北朝鮮軍で10年服務した偵察・狙撃手のリ兵士(26)、もう1人は4年服務した小銃手のペク兵士(21)で、昨年10..
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▲グラフィック=ヤン・ジンギョン
ロシアと戦争中のウクライナ軍は先月9日、ロシアに派遣された北朝鮮軍の兵士2人を捕らえて捕虜としたが、本紙は最近、ウクライナのある捕虜収容所で2人の兵士と面会した。ロシアに派遣されてウクライナの捕虜になった北朝鮮兵に対してメディアがインタビューするのは今回が世界初となる。捕虜のうち1人は北朝鮮軍で10年服務した偵察・狙撃手のリ兵士(26)、もう1人は4年服務した小銃手のペク兵士(21)で、昨年10-11月にロシアのクルスク地域に派遣された。2人とも収容施設の中でも奥の方にある独房でそれぞれ過ごしていた。派遣された北朝鮮兵は全員、精鋭部隊「暴風軍団」の所属だとされていたが、2人ともインタビューで「偵察総局所属の兵士」と明らかにした。
【写真】本紙特派員のインタビューを受ける北朝鮮兵捕虜・リ兵士
リ兵士とペク兵士はインタビューで、北朝鮮の国家保衛省(情報機関・秘密警察)の要員らがクルスクの北朝鮮軍を監視・統制しており「無人機(ドローン)で北朝鮮軍を攻撃しているのは、ウクライナに派遣された韓国軍だ」とうそをついて敵対心をあおっていることを初めて明かした。リ兵士は「(保衛省の要員たちが)ウクライナ軍の無人機を操縦しているのは全て大韓民国の軍人だと言っていた」と話した。
2人は共に一人息子だ。リ兵士は平壌出身で「昨年10月10日に『訓練を受けるために留学に行く』と聞かされてやって来た」と話した。ペク兵士は「入隊した年に父が病死し、母親(50)一人だけ残っている」と言った。2人ともまだ20代前半と20代半ばで「除隊したら大学に進学して勉強するのが夢だった」と語った。リ兵士は「韓国に行きたい」とも明かした。
捕虜となった北朝鮮兵士へのインタビューは、複雑な交渉過程を経て実現した。2人の若者の手を握ってみると、20代とは思えないほど荒れていて皮膚が厚かった。長期間の労働と過酷な訓練によってできた傷と、木の皮のような硬いタコが両手の手のひらにあるのが分かった。「元気な姿で必ずまた会いましょう」と別れ際にあいさつすると、2人は抱擁で応じた。2人のインタビューを2回に分けて掲載する。第1回は狙撃手のリ兵士だ。
※編集者注:本紙は今回、捕虜となった北朝鮮兵へのインタビューを報道するに当たり、兵士の実名を記載せず、また身元を推定できるような一部の具体的な情報も明かしておりません。これは、戦争捕虜に関する国際法の規定などにより、捕虜の人権を保護するための措置です。しかし写真と映像については、すでにウクライナ政府が2人の顔を何度も公開しており、1カ月以上にわたって世界的に拡散されていることから、モザイク等の処理は意味がないと判断し、編集会議を経てモザイクなしの写真と映像を使用することといたしました。
■「軍に入って10年間、一度も両親に会えず…兵士のほとんどは一人息子」
【1】26歳の狙撃手、リ兵士
ロシアとウクライナが戦闘を繰り広げるロシア・クルスク州に昨年末に派遣され、戦闘で負傷してウクライナ側に捕虜として捕らえられた北朝鮮軍のリ〇〇兵士(26)は、1月9日に生け捕りにされた時、右腕と顎に重傷を負っていた。初めて彼の存在を世界に伝えた動画でも、リ兵士は顎に包帯が巻かれて言葉を発することができず、明らかにつらそうな表情を浮かべていた。それから約1カ月を経てウクライナ某所にある収容所の独房で面会したリ兵士は、随分と回復した様子だった。顎の圧迫包帯は既に外れており、たどたどしい感じではあるが話をすることができた。顎には銃による大きな傷があったが、これも癒えてきているようだった。
リ兵士の部屋には小さな中国製テレビが置かれており、音楽が流れていた。インタビューを始めようとすると、リ兵士はリモコンを手にしてテレビの音を小さくした。リ兵士は話の途中で何度も「記者だとおっしゃいましたよね?」と言って気になることを記者に尋ねていた。リ兵士は、北朝鮮の特権層が集まって居住する平壌の出身でありながらも、困難な環境で育ち、非常に苦労したと話した。その上で「ついに戦場まで来て、何度も死の淵を乗り越えた」と言って涙をこらえた。
-ご両親は二人とも平壌におられるんですか。
「(うなずく)」
-ご兄弟もいらっしゃるんですよね。
「私一人です」
-ご両親はあなたがここに来ていることをご存じないんですよね。
「はい、知りません。あちらを出発する3カ月前から、家とは一切連絡を取ることができませんでした」
-ロシアにはいつ出発したんですか。
「私たちが出発したのは10月10日。もともとは慈江道の(洪水)被害の復旧支援に動員されていたんですが、1カ月で撤収になり…。訓練場に行って訓練を受け、10月初めに出発してロシアに到着しました。
-では、クルスクにはいつ到着したんですか。
「12月中旬だと思います。(ロシアの)ウラジオストクで訓練を受け、移送されてここに来ました」
-ご両親に伝えたい言葉はありますか。
「実は母と父は病気なんです。重い病気です。父は体が不自由で、母は消化すらまともにできません。恐らく私が捕らえられたこと、私が捕虜になったことが我が国(北朝鮮)の政府に知られたら、父と母は平壌にはいられないでしょう」
(しかしウクライナ政府は先月、既にリ兵士の姿を撮影して映像で公開した。そのため(北朝鮮側は)捕虜2人の身元を確認したと推定される。北朝鮮の実情を伝えるために、本紙もリ兵士の発言をそのまま掲載する)
-本来の所属部隊はどちらですか。
「偵察総局」
-士兵として服務していたのですか。
「はい、除隊する年齢です。2015年に入隊しました」
-偵察・狙撃兵などとして服務したと聞きましたが。
「はい」
-どんなふうに言われてロシアに来たのですか。
「留学生として訓練すると。戦闘に参加するとは思ってもいませんでした」
-戦闘に参加することを初めて知ったのはいつでしたか。
「クルスク地域に到着してから、待機区域という場所にいたんですが、そこで知らされました」
-クルスクまではどうやって来たのですか。
「汽車に乗って、飛行機にも乗って、バスにも乗って」
-一緒に来たのは何人でしたか?
「2500人ぐらいです」
-北朝鮮は今、私たちの同胞の若者たちがここに来て戦っているという事実を認めていないんですが。
「秘密でしょうね」
-そう考えるのはなぜですか。
「対外的な条件(対外関係における立場)が損なわれる可能性とか、そういう点で」
-ロシア軍とは問題はありませんでしたか。
「私たちは、下っ端は特に話をすることもなく、上層部が全て組織して。弾薬の問題とか衣服や物資、そういうものは全て上層部の方で取り決めて、全て供給されるようにしていて、士兵たちとロシア(の軍人)は特に言葉を交わしませんでした」
-コミュニケーションはどのようにしていたんですか。
「スマートフォンの翻訳機を使っていました」
-平壌にいたときはスマートフォンを使っていましたか。
「スマートフォンの翻訳機能はここに来て初めて使いました。それまでは外国人と会うことがなかったので」
-派兵された部隊(暴風軍団)は忠誠心の高い部隊ですか。
「戦闘力が高いので。工事や戦闘の任務遂行などで先頭に立って…。三池淵の建設はご存じですか?」
-それは何ですか。
「三池淵市(金正恩〈キム・ジョンウン〉総書記が戦略的に再開発した観光都市)を建設する工事です。(私たちの部隊が)12月に出発して工事に当たっていたんですが、雪と寒さがひどかったです。2019年度のことでした。行ってみると、人家が1軒もない山の中で、その山に胸まで雪に埋もれながら入っていったんです。そこで兵舎を建設しなければならなかったんですが、つるはしで一日中掘っても、このぐらいの小さな石ころ一つ、土の中から石ころ一つ掘り出すと、手が(凍り付く様子を示すジェスチャー)。過酷な気候だったんですよ。あまりにも寒くて、小便をするとその場で凍って落ちるほどでした」
-クルスクと比べてどちらが寒いですか。
「あっちの方がずっと寒いです。ここは何てことありません」
-ここで過ごしていて、食事はどうですか。
「まだ顎が十分に治っていないので硬い食べ物は食べられません。お粥みたいなもの…もしくはラーメンを食べたいんですが、ラーメンは食べられません」
-顎と腕はどうして負傷したんですか。
「1月5日から戦闘に参加しました。まず、先陣を切った単位(部隊)が全て犠牲になりました。無人機(ドローン)と砲撃にやられて大勢が犠牲になりました。ロシア側が(防御のための)砲撃をあまりしてくれなかったので、私たちがたくさんの無謀な犠牲を強いられました。砲撃したとしても(ウクライナ軍の)後方ばかり狙って撃っていたので、私たちが無謀な犠牲を払いました。
-その日は何人が出撃したのですか。
「後方攻撃班として3人が…。防風林の始まりと端の地点で、残りの中隊が攻撃を開始するんです。私たちはその間に飛び込んで、その間から後方をかく乱しながら攻撃を始めなければならないんです。ところが、そこに入ったら敵が待ち伏せしていて…。見つからないように動くこともできたかもしれませんが、無人機のせいで見つかってしまったんです」
-訓練の時はドローンについて詳しく教えてもらわなかったのですか?
「教えてもらいました。ドローンに関する戦闘形式とか、そういうことを別途教わったわけではありません。私たちが訓練する時は『速いヤツだけが生き残る』といった形で訓練をしていたので。(ドローンが)現れたら走るか隠れ場所に隠れるか、地面に伏せて銃で撃つなど、そういった訓練をしただけで、無人機を直接撃ち落とす訓練はしませんでした」
-それでは、犠牲を払いながら少しずつドローンについて理解していったんですね。
「はい」
-ドローンに見つかった後はどうなりましたか。
「私たちの班は3人だったんですが、班長と私の下の兵士は既に銃で撃たれて倒れた状態で、私一人だけが無事だったんです。そのため私も必死で地面に伏せて銃を撃ちながら、隠れやすそうな場所に隠れようと移動している途中で銃弾を浴びたんです」
-どこに当たったんですか。
「銃弾が腕に当たって骨を砕いて貫通し、顎にも当たりました。顎が全部粉々になったんです。その後、意識がなくなって…。とにかく大量に血が流れたので意識を失って倒れたんです。目を開けたら夜だったんですよ。撃たれたのは明け方だったのに。それから起き上がろうとしたら、頭をつかまれて回されるような感じがして、貧血でめまいが…。そこにしばらく座っていたんですが、来た道を戻ろうと思って進んでいる時に、我が(北朝鮮の)軍人たちに会ったんです。ところが私の中隊ではなく、私が属する大隊の別の中隊だったんですよ。その人たちがこのように(顎と腕を)包帯で全部巻いてくれたんです」
-そんな風に応急手当をしてくれたのなら、なぜその部隊についていかなかったのですか」
「そうしようとしたんですが…。『魔鬼無人機』ってご存じですか?」
(後編に続く)
キーウ(ウクライナ)=鄭喆煥(チョン・チョルファン)パリ特派員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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