▲グラフィック=ヤン・ジンギョン
■「中隊の同期が全員死んで自分だけ生存…手りゅう弾があったら自爆していた」
-それは何ですか。
「とても大きな無人機なんですが、爆弾を積んでいて…。熱映像感知器(サーマルカメラ)を搭載していて、夜ごと爆弾を投下しながら飛んでいる無人機なんですよ。それが空中でずっと回っていて、無人機が熱映像感知器でサーチ(捜索)して手りゅう弾を落とすので、(そこから)動けなかったんです。そこで、(とりあえず)私たちが..
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▲グラフィック=ヤン・ジンギョン
■「中隊の同期が全員死んで自分だけ生存…手りゅう弾があったら自爆していた」
-それは何ですか。
「とても大きな無人機なんですが、爆弾を積んでいて…。熱映像感知器(サーマルカメラ)を搭載していて、夜ごと爆弾を投下しながら飛んでいる無人機なんですよ。それが空中でずっと回っていて、無人機が熱映像感知器でサーチ(捜索)して手りゅう弾を落とすので、(そこから)動けなかったんです。そこで、(とりあえず)私たちが掌握した地域に行って、そこで隠れていたんです。ところが深夜3時ごろ、ウクライナ軍が装甲車に乗ってきて、装甲車から機関銃を打ちながら私たちが掌握している地域にウクライナの兵士たちを送り込んで作戦を展開したんです。そのため、そこに隠れていては全滅しそうな状況だったので、『もう出ていこう』とそこから撤収して移動する途中で、また無人機に攻撃されて、私を救ってくれた人が1人、また1人と死んでしまい、そうしているうちに私一人が生き残ったという訳なんです」
【写真】本紙特派員のインタビューを受ける北朝鮮兵捕虜・リ兵士
-一人になる前は何人いたんですか。
「私のほかに5人がいた状態で、5人とも皆、犠牲になりました」
-その後はどうなったんでしょうか。
「真っ暗な夜になったんですが、私は地形をよく知らなかったので、ただ感覚的に『あの稜線さえ越えれば自分たちの区域だろう』と考えて動いたんですが、違っていたんです」
-方向が違っていたんですね。
「方向が違っていて…それから再び道を探して、もう一度行こうと進んでいる時に、捕虜になったんです。その時の私は腕も使えず、防弾服には手りゅう弾もナイフも(なく)、戦闘用の装備が全くなかったということです。そして、けがをしていたので重い物を持って移動することはできず…。だからそんな状態で歯向かったところで、私が捕らえられるのは当然で。もし手りゅう弾でもあれば自爆していたかもしれませんが…」
-自爆しろという指示を受けていたんですか。
「我が人民軍隊において、捕虜は変節(主義・思考が変わること)に他なりません」(捕まったら自爆しろと指示されていたという意味)
-これから、どうしたらいいと思いますか。
「いろいろなことを考えています」
-ご両親のこともたびたび考えるでしょうね。
「両親に会いたくてたまりません。(しばらく考え込んでから)黄海南道の信川郡が、私の服務していた場所です。平壌から近いんですよ。(それなのに)私が軍に服務している間、一度も家に帰れませんでした」
-10年間、一度も帰れなかったんですか。
「はい。両親とは電話ではたくさん話しましたが、直接は一度も会えませんでした」
-今、北に帰ったらまたさまざまな苦難があると思いますが。
「もちろんそうですね」
-今後について、心に決めたことはありますか。
「(うなずきながら)80%は決心しました」
-どのような決心をしたんですか。
「(しばらく悩んだ様子を見せ)記者だとおっしゃいましたよね? (またしばらく考え込む)まずは難民申請をして、(しばらく考え込む)大韓民国に行こうと考えています。私が難民申請をしたら受け付けてもらえるでしょうか? (これに関連し、ウクライナの当局者は「北朝鮮軍捕虜の韓国行きが可能かどうかは韓国政府に懸かっている」と述べた)
-クルスクにいる戦友たちにかけてやりたい言葉はありますか。
「まずは今の戦闘状況が気になります。クルスクは今、全て解放されたんでしょうか」(ウクライナ軍を追い出したのかという意味)
-いいえ、解放されていません。
「(ため息)」
-(北朝鮮軍が)クルスクではなく別の場所に投入される可能性は?
「クルスクを解放しに行くと聞いていました。クルスクという地域には、あれがあるじゃないですか。ウランと核があるじゃないですか」
-核発電所、原子力発電所があります。(派遣された北朝鮮軍が)そこを守らなければならないのですか。
「はい」
-それは今クルスクで作戦を展開する上で非常に重要なことですね。
「(うなずく)」
-一緒に派遣された部隊の戦友の中に、思い浮かぶ人はいますか。
「ほぼ全員、犠牲になりました。私と一緒に軍隊に入った人たちは皆、犠牲になりました。私のいた中隊では同期が全員犠牲になり、一人も残っていません」
-一つの中隊は何人ぐらいなんですか。
「だいたい63―65人なんですが…私の同期だけで8人だったかな。全員犠牲になってしまい、もう誰もいません。私一人だけが残っています。生き残った私も、戦闘を経験したのは初めてです。行って同僚の死体を見たらいろいろ考えてしまいました。(捕虜として捕らえられる恐れがあったため)自爆したんですが、頭がなかったり、上半身がなかったり…。寒さが厳しい中、こうして雪が降る中で横たわっているんですが、その血のにおいが今でも…」
-同僚たちの遺体はどうするよう指示されましたか。
「戦闘が終わったら遺体を探して運ぶと聞きましたが…」
-実際に収拾する場面は見ていないんですか。
「(うなずく)」
-(遺体を収拾しても)身元の確認が大変そうですが。
「(ためいき)ええ…。その親御さんたちのことを思うと。(北朝鮮では)子どもを1人か2人産むんですが、ほぼ一人息子なんですよ。(ため息)私が中隊の中で一番最後に戦闘に参加したんです。先行した小隊は全て動員されて、犠牲者が多数出て病院に搬送されたんだとか。その時まで私たちは戦闘に参加する中隊を支援しながら負傷者を運び、物資を(補給)し、そうしているうちに人数が足りないとのことで私たちが動員されたんです。ところが、あんなに死亡者が多数出るとは…。その上、最後に戦闘に参加したら本当に激しくて…。(人が)死ぬのを初めて見ました。私の隣で銃弾を浴びる姿や、手りゅう弾が爆発して死ぬのを初めて見ました。私と一緒に話をしていた人たちが、もう何の言葉も話さないんですよ」
-先ほど魔鬼ドローンと言いましたよね。おばけのようだと。偵察ドローンのことなんですが、他にどんなドローンがありますか。
「自爆ドローン。無人機に対して油断していました。無人機が一番…。無人機のせいで多数の犠牲が出たんです」
-部隊内に保衛省(北朝鮮の情報機関)から来た人たちはいますか。
「大隊(約500人)ごとに1-2人ずつ来ています」
-その方々が普段から思想的・規律的に厳しく統制を?
「勤務的に統制もするし、思想的に統制もするし。(保衛省の人たちから)私が戦闘に行く前に言われたのが、(ウクライナ軍の)無人機の操縦士についてなんですが、その無人機の操縦士たちは全て大韓民国の軍人だと、そう言われたんです」
-みんなそれを信じて戦っていたんですか?」
「(うなずく)」
-戦闘に参加しながら、(相手の中には)ウクライナ軍もいるけれど、大韓民国の軍人たちと戦うんだと考えていたんでしょうね。
「(うなずく)」
-もしかして、だからこそ一層必死で戦わなければと考えるわけですか。
「私たちは実戦経験は初めてです。恐らく戦うのが楽ではないでしょう。訓練を始めた時から、何と言いますか、肉体的にというよりも思想的に悪質だと言うべきなのか。山岳行軍だったり、体力トレーニングの訓練だったり、射撃訓練だったり、とにかく必死で…。そこで落ちこぼれたら恥だと考えて必死で訓練をしたので、つらいと思います」
-北にいた時、韓国についての話はたくさん聞きましたか。
「話はそんなに聞いていません」
-(韓国の)ドラマを見たとか、音楽を聴いたことはあるでしょう。
「音楽は少し聴きましたが、ドラマは見たことがありません。ドラマみたいなのは観たのがばれると捕まるので」
-もともと、どんなことがやりたかったんですか。気軽に話してみてください。
「(除隊後は)勉強をして、大学に通おうと思っていました。もともと父方の親戚がみんな科学者という家柄だったんです。だから私も勉強しようと思っていたんですが…。家のことでは本当に苦労しました。家があまりにもみじめで苦労もたくさんして、経済的にあまりに大きな打撃を受けてお金のことでの苦労もたくさんしたし、いろいろな苦労をたくさんしました。また、軍隊に来てからは精神・肉体的に非常に大きな打撃を受けるようなことも多かったし、人間として体験し得る厳しい状況を全て体験したような気がします。死の淵にも何度も直面したし…。そして本当の死の危機を乗り越えてこうして捕虜になったんですよね。(ため息)私も親の期待に背くことのないように、自分の夢をかなえたいです。夢を花開かせたいんです。(ため息)私はまだ若いですから」
キーウ(ウクライナ)=鄭喆煥(チョン・チョルファン)パリ特派員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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