私はかなり年を取っておられる方々と、好んで昔の話をする。本で見る歴史とは違って、生の出来事そのままの、生き生きとした現実を観察できるからだ。数年前に大阪で、済州島出身のおばあさんたちと済州4・3事件について対話を交わしたことがある。3人のおばあさんがいたが、それぞれ1930年生まれ(キムさん)、35年生まれ(キムさん)、39年生まれ(ハンさん)で、そのうち35年生まれと39年生まれの二人は同じ村..
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私はかなり年を取っておられる方々と、好んで昔の話をする。本で見る歴史とは違って、生の出来事そのままの、生き生きとした現実を観察できるからだ。数年前に大阪で、済州島出身のおばあさんたちと済州4・3事件について対話を交わしたことがある。3人のおばあさんがいたが、それぞれ1930年生まれ(キムさん)、35年生まれ(キムさん)、39年生まれ(ハンさん)で、そのうち35年生まれと39年生まれの二人は同じ村の出身だった。済州4・3事件についてこのように生々しい証言を聞いたのは、そのときが初めてだった。
【写真】済州4・3遺跡地で見つかった遺物
39年生まれ:4・3というのをご存じか?
私:メディアで聞いてはいます。あのとき済州島の住民が大勢犠牲になったんですよね。
39年生まれ:大勢死んだどころじゃない。あのとき、私たちの祖父、祖母、そして父も死んだ。
私:誰が殺したんですか?
35年生まれ:(口を挟んできて)以北の人たちが殺したんだよね。
私:以北というと? 北朝鮮から人が来たということですか?
39年生まれ:以北の人間が来たわけじゃなくて、命令を受けたということ。あのころは昼と夜が違う世界だった。昼間は南側の世界で、夜には以北の指令を受けている人間の世界。
私:なぜ殺されるんですか?
39年生まれ:あのとき、私たちの父は面(日本の村にほぼ相当)事務所の係長だった。(35年生まれが口を挟んできて)すごく背も高くて、美男で、おしゃれだった。私はいまだに思い出す。
私:何か人民裁判のようなのをやったんですか?
39年生まれ:そんなのはない。ただ殺した。
39年生まれ:ただ単に刺し殺した。
私:竹やりでですか?
39年生まれ:竹やりじゃない。最近の人たちはあまり知らないだろうね。金串なんだけど、それを鋭く研いであって。それでただ単に刺す。あのとき私は9歳だったが、いまだに思い出す。
私:生き残った家族は?
39年生まれ:母は助かった。けれど後に母も病気で死んだ。あのころは本当につらかった。兄弟たちが助けてくれて助かった。
私:(35年生まれに)おばあさんのところの御家族は?
35年生まれ:うちでは死んだ人はいない。よそ者が来ると知って、あらかじめ逃げたりとか。代わりにそいつらはうちの家をすっかり焼いた。
私:なぜそんな仕打ちを?
35年生まれ:私には兄が3人いたが、みんな軍隊に行ってたりして。軍人の家族だと、そういうことかね。
私:(30年生まれに)おばあさんは、大丈夫でしたか?
30年生まれ:あのころ、うちの父は日本で製油所をやっていた。代わりにいとこの家で私たちを守ってくれた。いとこの家が警察署長だったりしていて。
私:日本にはなぜいらっしゃったんですか?
30年生まれ:後で母が父を追って日本へ行き、私にも来いと言い続けてた。あのころ私は、卒業して済州税関に務めてたけど、(済州島で)到底生きていくことはできないなと。怖くて。
毎年4月初めになりさえすれば、済州4・3事件を振り返るドキュメンタリーが盛んに見られる。かつて4・3は「国家暴力」であると言われたりした。間違いではない。4・3鎮圧の過程で罪もない住民が犠牲になった。二度と繰り返されてはならない、韓国の歴史の悲しき一部だ。しかし私と対話を交わしたこのおばあさんたちも「国家暴力」の犠牲者なのか?
単に父親が面事務所に務めているという理由で、無残に殺害されるのを目撃しなければならず、兄たちが軍人だという理由で暮らしていた家が放火され、単に税関に務めているという理由で危害を加えられるのではないかと思って恐怖に震えなければならなかった。これも「国家暴力」なのか?
1948年4月3日に南労党済州島党は暴動を起こした。済州島内の警察支署12カ所を襲撃して警察官、公務員、その家族を無残に殺害した。その後も「選挙に参加した」という理由で住民を殺し、公務員やその家族に対する虐殺を続けた。当初、暴動の目的は選挙妨害だったが、大韓民国政府樹立後は韓国憲法を否定し、政府そのものを相手に抗争を行ったのだ。4・3鎮圧の過程で多くの人が犠牲になったのは残念なことだが、暴動の目的そのものは「内乱」にほかならない。
これに対して当時の米軍政は、軍事力で対応した。4月5日に済州非常警備司令部を設置し、4月17日に済州島駐屯の国防警備隊9連隊に事態鎮圧を命じた。敵との交戦ないし極度の社会秩序かく乱により警察力だけでは秩序回復が難しいときに軍隊を投入すること。これが戒厳の定義であるとするなら、当時の米軍政は、南労党の内乱の試みに対して戒厳令で対応したことになる。その後、韓国政府が樹立されてから、48年10月に国軍第14連隊が済州4・3鎮圧命令を拒否したとき、韓国政府の史上初の戒厳令が宣布されたが、戒厳の本来の意味を読み解くと、南労党の暴動に対応して済州非常警備司令部を設置するために米軍政が公布した済州道道令こそ、韓国の地に宣布された「最初の戒厳令」と言えるだろう。
淡々とした話しぶりでぞっとするような過去を回顧するおばあさんたちの前で、私は心の中で何十回も「すみません」と繰り返した。そして、目の前で家族が無残に殺害される様子を見なければならなかった、その「9歳の少女」を、ひしと抱き締めてあげたかった。済州4・3の「国家暴力」については、2003年に当時の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が公式謝罪したことがある。しかし、私と対話を交わしたこのおばあさんたちが直面した「共産内乱勢力の残忍な暴力」については、誰に謝罪を要求すべきだろうか? 共産党の無慈悲な暴力で被害に遭った人々とその子孫は厳然として存在するのに、この人々のためには誰一人、謝罪要求すら持ち出さない。歯がゆく、残念な現実だ。
張富丞(チャン・ブスン)関西外国語大学外国語学部教授
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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