▲写真=NEWSIS
日本による植民地支配時代の従軍慰安婦問題に対し、謝罪と反省の意を込めた「河野談話」を発表した河野洋平・元衆議院議長が8日に死去した。89歳だった。日本のメディアが10日に報道した。同氏は日本が戦後の長期間にわたり避けてきた植民地支配と戦争犯罪問題に正面から取り組み、戦後の韓日関係に重要な転機をもたらした人物だと評価されている。
【写真】目も合わせずそっぽ…河野洋平氏の息子の河野太郎外相と康京和外相..
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日本による植民地支配時代の従軍慰安婦問題に対し、謝罪と反省の意を込めた「河野談話」を発表した河野洋平・元衆議院議長が8日に死去した。89歳だった。日本のメディアが10日に報道した。同氏は日本が戦後の長期間にわたり避けてきた植民地支配と戦争犯罪問題に正面から取り組み、戦後の韓日関係に重要な転機をもたらした人物だと評価されている。
【写真】目も合わせずそっぽ…河野洋平氏の息子の河野太郎外相と康京和外相(肩書はいずれも2019年当時)
河野洋平氏は1937年、神奈川県で政界の名門一族の家に生まれた。早稲田大学政治経済学部を卒業後、商社で勤務し、1967年の衆議院選挙で初当選を果たすと、その後14回連続で当選した。父親は農林大臣・建設大臣などを務めた河野一郎氏、叔父は参議院議長を務めた河野謙三氏、長男はデジタル大臣・外務大臣などを歴任した河野太郎・現衆議院議員だ。
河野洋平氏は1993年8月4日、宮沢喜一内閣の官房長官として、韓日関係の重要課題として当時急浮上していた従軍慰安婦問題に関する談話(河野談話)を発表した。この談話は政府の調査結果に基づき、「長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在した」ことを認め、「旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」とした。また、慰安婦の出身地については「日本を別とすれば、朝鮮半島(韓半島)が大きな比重を占めていた」「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」と認めた。
その上で、河野談話では「(日本)政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫(わ)びと反省の気持ちを申し上げる」と述べた。これは日本政府が公式文書で従軍慰安婦問題に関する旧日本軍の関与や強制性を認め、被害者に対して謝罪と反省を表明した初の事例だった。1965年の韓日請求権協定により「法的賠償問題は終結した」という立場を維持したことは限界として指摘されたが、日本の国家責任を事実上認めた宣言として、戦後の韓日関係に変化をもたらす契機となった。
河野談話は「村山談話」や「韓日共同宣言」へと続く、日本政府の歴史問題反省路線の法的・政治的な土台となった。1995年8月15日、当時の村山富市首相は日本の戦後50周年にあたり、植民地支配と侵略に対する「痛切な反省」と「心からのお詫びの気持ち」を表明する談話を発表した。1998年、当時の小渕恵三首相は、同じく当時の金大中(キム・デジュン)大統領と共に発表した「韓日共同宣言 21世紀に向けた新たな韓日パートナーシップ」において、韓国国民に対し「痛切な反省と心からのお詫び」を表明した。
このような謝罪談話が日本の強硬派からの反発を招いたこともあった。安倍晋三元首相をはじめとする強硬派は、河野談話を「過度な自己卑下」や「事実関係が不明確な謝罪」と批判し、その意義を矮小(わいしょう)化した。しかし、以降の首相たちは、河野談話や村山談話などに関し、歴代首相の歴史認識を継承する旨を表明してきた。
河野洋平氏は韓日間の文化・社会交流にも少なからぬ役割を果たした。河野洋平氏は韓日議員連盟の活動や各種文化・スポーツ交流イベントを通じ、両国の若者・文化人の交流を奨励し、スポーツ・芸術分野の交流による相互理解増進を強調してきた。戦後の保守系政治家としては珍しく、人権・市民社会の言葉にも耳を傾けた人物として評価されている。 韓日関係が行き詰まっていた時も、河野洋平氏は政治的な立場の違いとは別に、両国の社会・文化・人的交流チャンネルは維持すべきだという姿勢を貫いた。
東京=柳井(リュ・ジョン)特派員、キム・スギョン記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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