京都・高麗美術館の設立者、朝鮮白磁から始まった収集家人生

【新刊】鄭詔文、チョン・ヒドゥ著『鄭詔文と高麗美術館』(ダヨン社)

京都・高麗美術館の設立者、朝鮮白磁から始まった収集家人生

 「つぼが50万円? どうしてそんなに高いんですか」

 1955年、京都・京阪三条駅の近くにある商店「柳」にて。清らかな白磁のつぼに魅せられた37歳の在日韓国人の青年は、大変な価格に開いた口がふさがらなかった。「朝鮮白磁ですよ。このように美しい形をしたものはなかなかありません」。飾り気のない曲線、滑らかな純白の肌に魅了されたその青年は、結局1年間の月賦払いでつぼを手に入れた。日本国内に散在する朝鮮の文化財約1700点を集め、京都市内に「高麗美術館」を設立した故・鄭詔文(チョン・ジョムン)氏=1918-89=のコレクション歴は、こうして始まった。

 鄭氏は慶尚北道醴泉郡で生まれ、6歳のときに韓国を離れた。中国・上海で独立運動に参加して挫折した父親は、妻と2人の息子を連れて京都に移り住んだ。9歳のとき、小学校4年生に編入し、それから3年間の小学校教育が、鄭氏が受けた教育の全てだった。授業が終わると、5、6人の子どもが鄭氏に石を投げ付けた。「朝鮮征伐だ!」。両親は生計のため機織りをしたが、朝鮮人が作った反物は「傷もの」扱いされた。鄭氏は歯を食いしばり、30歳になったころパチンコ事業に身を投じて金を稼いだ。

 丸い白磁のつぼは、鄭氏の人生を変えた。朝鮮人を蔑視する日本人が、なぜそれほど朝鮮の陶磁器に憧れるのか、不思議だった。鄭氏は決心した。「日本の中の『朝鮮』を集めて、同胞たちに朝鮮の誇りを見せてやろう」。鄭氏は京都一帯の古美術品店を回り、朝鮮の美術品の収集に熱を上げた。「見ずにはいられず、見たら触りたくて居ても立ってもいられず、手に入れられなければ病気になる」ほどのコレクターだった。1988年には財団法人を設立し、約1700点のコレクション全てを寄付して、地下1階・地上3階建ての「高麗美術館」を設立した。

 生前、鄭氏は一度も故郷の地を踏むことができなかった。「南北が統一するそのとき、祖国に帰る」という信念があったからだ。その代わり文化財を買い集め、望郷の念を和らげた。精神的同志だった上田政昭・現高麗美術館長は「彼の収集病は、単に良い美術品が欲しいというのではなく、日本が奪っていった祖国の美術品を取り戻さねば、という執念から始まったものだった」と証言した。海外の博物館で、韓国の遺物を専門に展示しているのは、この高麗美術館だけだ。所蔵品は全て日本で鄭氏自ら買い集めたもの。長きにわたり汗を流した、その苦労がいじらしい。

 貴重な文化財と一つ一つ出合うエピソードはリアルだ。白壁の収蔵庫で、青緑色をした統一新羅時代の釣り鐘と出合った瞬間、鄭氏は「鐘を打ってみたい」という衝動に駆られた。1200年前の飛天の音が建物の中に響き渡るや「海を渡って新羅まで聞こえるだろうか」と言って笑った。牛の角を薄く切って伸ばした華角の工芸品、目がきらりと光るトラを描いた民画の意味まで取り上げた一冊。240ページ、2万ウォン(約1770円)。

許允僖(ホ・ユンヒ)記者
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