【萬物相】明洞の没落

【萬物相】明洞の没落

 1956年早春、ソウル・明洞の飲み屋でマッコリ(濁酒)を飲んでいた詩人・朴寅煥(パク・インファン)が紙に詩を書き殴った。「今はもう、あの人の名前は忘れたが/その瞳・唇は私の胸にある」。この詩に、隣にいた作曲家イ・ジンソプが曲を付けた。テナーのイム・マンソプが熱唱すると、通りかかった人々が飲み屋の前に集まったという。後に歌手パク・イニが歌ってヒットした『歳月が過ぎれば』はこうして誕生し、『明洞シャンソン』『明洞エレジー』とも呼ばれた。明洞にロマンがあった時代の話だ。

 1929年、日本の三越百貨店がソウル出張所を支店に昇格させた。翌年10月に地下1階、地上4階建てのビルを忠武路に完成させた。現在の新世界デパート本店だ。4階のコーヒーショップはモーニング・コーヒーを味わう人々でいっぱいになったという。主人公が「飛ぼう。飛ぼう。もう一度だけ飛んでみよう」と繰り返して言う李箱(イ・サン)の短編小説『翼』の結末に登場する場所は三越の屋上だ。1920年代以降に商業地となった明洞と忠武路一帯は、富と欲望が集結する単なる商業地以上の場所だった。文化・芸術の中心だったのだ。

 「芸術家たちは、金を面倒くさく思っている/芸術家たちはひたすら愛に生きる/芸術家たちの愛からはコーヒーの香りがする」(詩人・趙炳華〈チョ・ビョンファ〉の詩『東方サロン』)。戦痕が消えていない1955年、青年実業家が明洞に文化人・芸術家のための「東方文化会館」を開いた。コーヒーを1杯注文し、一日中そこで過ごす貧しい文化人・芸術家たちのため、同会館の1階では喫茶店「東方サロン」を開いた。戦後の復興が進むにつれ、明洞に高層ビルが建つようになり、金融機関の本社が入った。

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