中国の高句麗史歪曲(わいきょく)で韓国全体が騒然としていた2004年9月、ソウルで高句麗史の国際学術大会が開かれた。中国からやって来た東北工程の主役学者らの中で、ある老学者が暗い表情をしていた。延辺大学渤海史研究所長を務めた朝鮮族の方学鳳氏だった。
中国の学者らが「高句麗は中国史の一部だ」「高句麗は中国の歴史が多民族の大家庭を築く過程の一つだった」と声高に強弁しているとき、彼はおおむね沈黙を守っていた。生涯にわたり高句麗と渤海の歴史を研究してきた彼もまた同じ考えなのだろうか? 最後に壇上に立ち、質問を受けると、方所長はうっすらほほ笑みを浮かべつつ控え目に語った。
「私の論文で高句麗の城を都城と書いたのは、一国の首都という意味です」
どういう意味なのかすぐに理解できた。「高句麗は中国の地方政権ではない」と婉曲(えんきょく)的に言及したものだったが、それ以上の言葉はなかった。こういうことすら政治的問題のせいで遠回しに言うしかない彼の存在が、まるで、かつて中国の地に残った高句麗の遺民のような境遇に思えた。
最近、中国・北京の国家博物館における韓中日青銅器遺物展で、韓国の歴史年表から中国側が勝手に「高句麗」と「渤海」を削除し、物議を醸した。これについて中国外交部(省に相当)は「学術問題は学術の領域で専門的な討論とコミュニケーションを行うことができ、政治的操作をする必要はない」とコメントした。
果たしてそうなのか? 中国の東北工程は、学者らの「学術的議論」ではなく、当初から徹底して政治的な工作だった。1963年に周恩来首相が「鴨緑江の西側が有史以来中国の地だったというのはでたらめな論理」と言ったように、中国は1970年代まで、高句麗は韓国史の国だということを否定しなかった。
しかし1980年代、自国内の諸民族の歴史も中国史だという「統一的多民族国家論」が本格化したことで変わり始めた。現在の中国の地にかつて存在していた高句麗は中国の歴史だ-というわけだ。この論理の通りなら、今のトルコ領タルススで生まれた使徒パウロはトルコ人で、今のロシア領カリーニングラード出身のイマヌエル・カントはロシアの哲学者ということになる。