太陽が地球の周りを回るのではなく、地球が太陽の周りを回っていることに気付いたガリレオ・ガリレイ。そんな彼に背の低い司祭が訪ねてきた。鼻先であしらっていたガリレイに、背の低い司祭は次のように語った。「私はカンパーニャで暮らす農夫の息子として育ちました。そこの農夫たちは素朴な人々です。彼らはオリーブの木に関しては何でも知っていますが、その他のことについては何も知りません」
背の低い司祭は続けた。暖炉のそばに座ってチーズのかけらを食べる農夫たち、しわくちゃになった曲がった手で薪を割って畑仕事に専念する彼らにとって、天動説と地動説の違いは単純な学説的な対立では済まされない。そのつらくて苦しい生活に意味があるかどうかを問う問題なのだ。ガリレイの地動説は民衆に力を与えない。むしろ人生の意味と希望を奪っていくことだろう。
「もし私が、彼らの立っているのは宇宙の中で他の星の周りを絶えず回っている単なる小さな石の塊の上だと言ったら、無数に輝く空の星の一つに過ぎず、どこにでも存在する単なる星の上だと言ったら、私の家族は一体何と言うでしょうか。今になって、貧困の中で繰り返される途方もない忍耐と和解が何のために必要で有益だというのでしょうか」
ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒト。彼は代表作の一つである『ガリレイの生涯』を通じて知識人の役割について重苦しい疑問を投げ掛けた。知識人は働かない。生産活動をしない人たちだ。代わりに知的活動にまい進し、そのように知り得た真実を大衆に伝えることで世の中での役目を全うする。
まさに問題はここにある。知識人の鉄石のような自己確信とは打って変わって、いざ「民衆」たちは真実を望んでいないとしたら、索漠として冷静で、科学に基づいた事実に代わり、彼らの胸をときめかすことができる「ストーリー・テリング」だけを望んでいるとすれば、どう行動するべきだろうか。民衆を目覚めさせることは知識人の使命である。しかし、究極的に民衆により良い人生を提供しようとすれば、時には真実を隠しておいた方がいいのではないだろうか。
今日地球が太陽の周りを回っているという事実はもはや議論の対象にもなり得ない。法王庁でさえも、1633年のガリレイ裁判に対し謝罪と反省の意を表明して久しい。しかし、ブレヒトが形象化した極端な対立構図は依然として存在している。厳然たる科学的事実を隠したり話さなかったりする人々、大衆に正しい情報を伝達するよりも、大衆が聞きたがっている話を語ってあげることの方が正しいと信じる「背の低い司祭」たちが、堂々と知識人のふりをして歩き回っている。
福島原発汚染水についての論議を思い出してみよう。福島は毎年22TBq(テラベクレル)のトリチウム(三重水素)を太平洋に向け放出する予定だ。そら恐ろしく聞こえるかもしれないが、実際は微々たる量に過ぎず、論じるに値しないほどだ。放射能も自然の一部なのだ。毎年大気圏では5万から7万TBqのトリチウムが生成されている。太平洋にはすでに活動量300万TBqのトリチウムが存在している。