光州はなぜ朴栖甫を捨てたか【コラム】

軍部独裁に沈黙したとしてゲリラデモをする集団に押され、「朴栖甫賞」を廃止したビエンナーレ
光州は抵抗から和解へ向かっているのに、1980年代にとどまって芸術を政治化
彼らは芸術家でも何でもない

 芸術監督を務めた李淑京(イ・スクキョン)さん=テート・モダン(Tate Modern)国際アート部門シニア・キュレーター=の功績が大きかった。李さんは「観客が作品を鑑賞しながらニュースを見るような、そういうのでなかったらうれしく思う。日常においては政治的要求も重要だが、芸術家だけができる、芸術の力でほぐせるものも多い」と語った。今年の光州ビエンナーレのタイトルも「水のように柔らかく弱々しく(soft and weak like water)」だ。老子道徳経の「柔弱於水」から取ったこの言葉は、5・18民主抗争43周年を迎えて「抵抗」から「和解」「許し」へと転換していく光州精神を示すかのようだった。マレーシアのアーティスト、パンクロック・スーラップ(Pangrok Sulap)が、5・18市民軍に渡す握り飯をバラの花に変えて描いた「光州、花咲く(Gwangju Blooming)」の前で、多くの人が胸を打たれて立ち止まった理由もそこにある。

 その枠組みから見れば、朴栖甫芸術賞の廃止は稚拙だった。1980年代にとどまって未来を開くことのできない自閉的集団の扇動にして我執だった。朴栖甫も、一時は前衛芸術、アバンギャルドのトップランナーだった。「国展(大韓民国美術展覧会)」に反対し、反政府的作品だといわれて展示場から撤去された前歴もある。しかし、民衆美術が支配的だった80年代韓国画壇の閉鎖性から抜け出し、現代美術が向かうべき方向を提示した盟主でもあった。李禹煥(イ・ウファン)、尹亨根(ユン・ヒョングン)と共に、単色画を世界の舞台で認めさせた一等功臣だ。巨匠になるまで栄辱の歳月がないアーティストがいるだろうか。作品の価格が数十億になると、芸術は資本の侍女に転落するというのか。彼らの古い論理の通りであれば、金煥基(キム・ファンギ)やナム・ジュン・パイク(白南準〈ペク・ナムジュン〉)など、どんなアーティストも美術賞を作ることはできない。

 デモのニュースに接した朴栖甫は、フェイスブックにこう記した。「何の意見もないより、はるかに良い現象だ。歴史は反動し、発展する。だがこの主張には熾烈(しれつ)さがない。事実関係も正しくなく、思惟(しい)の痕跡も読み取れない。もっと学ぶべきだ」

 オム・ジョンスンが10年以上も掘り下げてきた「鼻のないゾウ」プロジェクトは、「群盲象を評す」の寓話をひねったものだ。オム・ジョンスンは「視覚は、さまざまな感覚の中の一つでしかない。芸術とは触覚、嗅覚、聴覚など五感と色覚が全て一緒になって作り出すもの、という事実を示したかった」と語った。自分が目で見たものだけを真実と言い張り、それと異なる意見を出すと敵と見なして断罪しようとする人々が、かみしめるべき言葉だ。彼らは芸術家でも何でもない。

金潤徳(キム・ユンドク)先任記者

【写真】オム・ジョンスン作「鼻のないゾウ」の一部

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