172年前の朝鮮王朝の酒瓶はなぜフランスに渡ったのか【コラム】

1851年、朝鮮王朝とフランスの初めての対面で酒を酌み交わし、フランスが持っていったもの
大国はささいな情報も収集…韓国側には当時の対面の記録もなし

 他方モンティニーは、対面の詳細な記録を本国へ報告した。褐色の酒瓶は、その証拠物として必要だったのだろう。172年が経過した現在まで保管するほどに、大国はささいな情報もおろそかにせず執拗(しつよう)に収集する-という事実を示している。モンティニーは、金大建(キム・デゴン)神父が1845年に模写した「朝鮮全図」も入手し、本国へ報告した。彼はなぜ、それほどまで朝鮮に関心を寄せたのだろうか。

 当時の状況についての研究として、フランスの学者ピエール=エマニュエル・ルーが書いた『十字架、鯨、大砲:19世紀中盤の韓国と向き合ったフランス(La Croix, la baleine et le canon:La France face à la Corée au milieu du XIXe siècle)』がある。フランス語で書かれた本を買って読んでみることはできず、簡略な英語の書評を見つけることができた。書評によると、モンティニーは「韓国に対する介入主義の伝令」で、難破船員を粗略に扱った韓国を懲らしめるべきだと主張する強硬派外交官だった。友好協力とは相反する人物だ。といっても、彼をとがめるべきではない。当時、西欧列強のフランスはアジア地域で植民地を探し、朝鮮もその対象の一つだった。モンティニーの主張が実現しなかった訳は、よりよい植民地であるベトナム攻略の方が至急だったからだ。フランスは1858年、ナポレオン3世の命令によりベトナムのダナンを攻撃し、ついには植民地とした。

 朝鮮の酒瓶を両国友好の象徴としてはならぬと言っているのではない。時代は変わった。交流の象徴とするに十分だ。ただし、外の世界がどのように回っているかを知らず、国内での権力闘争にばかり没頭するとき、危機が迫るという事実、国を守ろうと思ったらささいな情報もおろそかにしてはならないという教訓を、172年前の褐色の酒瓶を見ても忘れるべきではない。

李漢洙(イ・ハンス)文化部長

【写真】底に「小林」の刻印…韓国文化財・銀製李花文花瓶は日本製だった

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  • ▲172年前、全羅道の羅州牧使が駐上海フランス領事に贈った焼き物の酒瓶。/写真=ニュース1

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