-一つの中隊は何人ぐらいなんですか。
「だいたい63―65人なんですが…私の同期だけで8人だったかな。全員犠牲になってしまい、もう誰もいません。私一人だけが残っています。生き残った私も、戦闘を経験したのは初めてです。行って同僚の死体を見たらいろいろ考えてしまいました。(捕虜として捕らえられる恐れがあったため)自爆したんですが、頭がなかったり、上半身がなかったり…。寒さが厳しい中、こうして雪が降る中で横たわっているんですが、その血のにおいが今でも…」
-同僚たちの遺体はどうするよう指示されましたか。
「戦闘が終わったら遺体を探して運ぶと聞きましたが…」
-実際に収拾する場面は見ていないんですか。
「(うなずく)」
-(遺体を収拾しても)身元の確認が大変そうですが。
「(ためいき)ええ…。その親御さんたちのことを思うと。(北朝鮮では)子どもを1人か2人産むんですが、ほぼ一人息子なんですよ。(ため息)私が中隊の中で一番最後に戦闘に参加したんです。先行した小隊は全て動員されて、犠牲者が多数出て病院に搬送されたんだとか。その時まで私たちは戦闘に参加する中隊を支援しながら負傷者を運び、物資を(補給)し、そうしているうちに人数が足りないとのことで私たちが動員されたんです。ところが、あんなに死亡者が多数出るとは…。その上、最後に戦闘に参加したら本当に激しくて…。(人が)死ぬのを初めて見ました。私の隣で銃弾を浴びる姿や、手りゅう弾が爆発して死ぬのを初めて見ました。私と一緒に話をしていた人たちが、もう何の言葉も話さないんですよ」
-先ほど魔鬼ドローンと言いましたよね。おばけのようだと。偵察ドローンのことなんですが、他にどんなドローンがありますか。
「自爆ドローン。無人機に対して油断していました。無人機が一番…。無人機のせいで多数の犠牲が出たんです」
-部隊内に保衛省(北朝鮮の情報機関)から来た人たちはいますか。
「大隊(約500人)ごとに1-2人ずつ来ています」
-その方々が普段から思想的・規律的に厳しく統制を?
「勤務的に統制もするし、思想的に統制もするし。(保衛省の人たちから)私が戦闘に行く前に言われたのが、(ウクライナ軍の)無人機の操縦士についてなんですが、その無人機の操縦士たちは全て大韓民国の軍人だと、そう言われたんです」
-みんなそれを信じて戦っていたんですか?」
「(うなずく)」
-戦闘に参加しながら、(相手の中には)ウクライナ軍もいるけれど、大韓民国の軍人たちと戦うんだと考えていたんでしょうね。
「(うなずく)」
-もしかして、だからこそ一層必死で戦わなければと考えるわけですか。
「私たちは実戦経験は初めてです。恐らく戦うのが楽ではないでしょう。訓練を始めた時から、何と言いますか、肉体的にというよりも思想的に悪質だと言うべきなのか。山岳行軍だったり、体力トレーニングの訓練だったり、射撃訓練だったり、とにかく必死で…。そこで落ちこぼれたら恥だと考えて必死で訓練をしたので、つらいと思います」
-北にいた時、韓国についての話はたくさん聞きましたか。
「話はそんなに聞いていません」
-(韓国の)ドラマを見たとか、音楽を聴いたことはあるでしょう。
「音楽は少し聴きましたが、ドラマは見たことがありません。ドラマみたいなのは観たのがばれると捕まるので」
-もともと、どんなことがやりたかったんですか。気軽に話してみてください。
「(除隊後は)勉強をして、大学に通おうと思っていました。もともと父方の親戚がみんな科学者という家柄だったんです。だから私も勉強しようと思っていたんですが…。家のことでは本当に苦労しました。家があまりにもみじめで苦労もたくさんして、経済的にあまりに大きな打撃を受けてお金のことでの苦労もたくさんしたし、いろいろな苦労をたくさんしました。また、軍隊に来てからは精神・肉体的に非常に大きな打撃を受けるようなことも多かったし、人間として体験し得る厳しい状況を全て体験したような気がします。死の淵にも何度も直面したし…。そして本当の死の危機を乗り越えてこうして捕虜になったんですよね。(ため息)私も親の期待に背くことのないように、自分の夢をかなえたいです。夢を花開かせたいんです。(ため息)私はまだ若いですから」
キーウ(ウクライナ)=鄭喆煥(チョン・チョルファン)パリ特派員