1947年に発効した日本国憲法の前文もまた、徹底した「普遍の言語」を駆使している。最初の段落で国民主権の原則が「人類普遍の原理」であると宣言した。続いて次の段落では、単に日本人だけでなく「全世界の国民」に「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」があると定めている。さらに、自国利益のみを追求して他国を無視してはならないという政治道徳法則が、世界すべての国家における「責務」であると述べている。
わが国の現行憲法はどうだろうか。その前文に登場する最初の歴史的事件である三・一運動は、単に日本帝国主義に韓半島から撤退せよという、特定の地域に限定された主張ではない。三・一運動の意味は、1919年3月1日に発表された己未独立宣言書を見れば分かる。最初の段落で「人類平等の大義」を主張し、次の段落ではこの宣言が「全人類における共同生存権の正当な発動」であると述べている。このように、わが国の憲法前文にも普遍の精神は息づいている。
では、韓国政府・与党が憲法前文に追加しようとしている「5・18」の普遍性とは何だろうか。もしそれが民主化であるならば、その民主化はすでに完了し、剥製と化した過去の遺物ではなく、現在も生きて作動し続け、全世界へと広がっていく普遍的な響きを持つものでなければならない。特に、憲法上わが国の領土であり、平和統一の対象である北朝鮮に、その普遍的な波が及ぶべきであることは疑いの余地がない。
ところで、今の北朝鮮はどうだろうか。すでに世襲独裁体制であった北朝鮮は、今年3月の憲法改正で金正恩国務委員長による一人支配体制をさらに強固なものにした。今や北朝鮮体制は、まるで国家を高宗個人による財産と見なす専制君主制を露骨にした大韓帝国、あるいは日本帝国主権が天皇とその一家にあると宣言した敗戦前の明治憲法(大日本帝国憲法)を彷彿とさせる。
北朝鮮で人類普遍の価値である国民主権と人権の原則がこれほど徹底的に踏みにじられているにもかかわらず、李在明(イ・ジェミョン)政権は怒るどころか、これを無視したまま、「5・18精神こそが民主化だ」として、憲法前文に5・18を盛り込もうとしている。北朝鮮による民主主義の抹殺に沈黙しつつ、「5・18」を憲法前文に盛り込もうとするのは、結局のところ、5・18の精神は北朝鮮には適用されないということだ。これは生きて作動し続けている普遍的理念としての5・18の精神を去勢し、動物園に閉じ込めて見世物にするのと同じことである。これ以上に5・18の精神に対する冒涜があるだろうか。
張富丞(チャン・ブスン)関西外国語大学外国語学部教授
※ 本記事はAIで翻訳されています。