北朝鮮が、西海(黄海)上で行方不明になった韓国の公務員を銃撃して殺害し焼却した事件に対する政府・与党の「気の抜けた」対応は、「国民の生命保護」という国家の根源的存在理由を問う人々に対し、挫折の思いだけを植え付けている。そしてこの事件に対する与党の錯覚とも言える認識は、586世代(1960年代生まれで80年代に大学に通った現在の50代)の政治家の看板とも言える禹相虎(ウ・サンホ)民主党議員の発言に明確に集約されている。禹議員が延世大学総学生会長だった1987年6月の民主抗争当時、軍事独裁政権のデモ鎮圧過程で催涙弾の破片に当たって死亡した故イ・ハンヨル烈士の遺影を持って葬儀の先頭に立った「歴史的写真」を思い浮かべると、この発言はさらに不可解なものと感じられる。
6月抗争は、政権による故パク・チョンチョル烈士の無念の死とこれに対する厚かましいうそに端を発する。残酷な拷問の末に死亡した故人について、1987年1月当時に治安本部長を務めていたカン・ミンチャン氏は「ドンと机をたたいたところ、ウっと言って倒れて死んだ」と記者会見で釈明した。この見え透いたうそに「これ以上、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権を野放しにはできない」とし、国民的怒りに火が付いた。同年6月9日、今度はイ・ハンヨル烈士までが死亡したことで会社員や主婦までが街頭デモに参加すると、政権は6・29宣言で白旗を掲げた。先頭に立って抗争をリードした全国大学生代表者協議会(全大協)1期の中心メンバーには、 議長を務めた李仁栄(イ・インヨン)現統一部(省に相当)長官と副議長だった禹相虎(ウ・サンホ)氏がいた。