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 日本人は実際に鉄杭を打ち込んだのだろうか? 筆者が長年をかけて全国の「鉄杭」現場を実地調査したところ、「明国の武将・李如松が全国の地脈を断ち切らせた」という話と「日本人が鉄杭を打ち込んだ」という話が多く聞かれた。では、なぜ鉄杭を打ったのだろうか。それは「山の破壊は人間の悲劇(山破人悲)」という風水説と関係がある。

 「鉄杭」という言葉を最初に口にしたのは朝鮮時代の第22代国王で学者君主としても知られる正祖(1752-1800年)だった。そして、その理由は高麗時代の第31代王・恭愍王(1330-74年)の時代にまでさかのぼる。

 恭愍王は当時、傾きつつあった元国を捨て、新たに開国した明国の初代皇帝・朱元璋との関係を築いた。このため朱元璋は1370年(恭愍王19年)に道士・徐師昊を高麗に派遣、名山大河の神霊の祭祀(さいし)を行わせた。理由は簡単だった。「高麗は明国に服属したのだから、天子が山河の祭祀を行う際は高麗の山河についてもするのが当然だ」ということだ。朱元璋は元国を北に追い払って新しい国を建てたが、天下を完全に平定したわけではなかった。朱元璋は元の服属国・高麗をないがしろにすることができず、初期には高麗と恭愍王に対し非常に好意的だった。諸侯国の山河の祭祀を行うのは国を建てた天子の慣例だった。つまり、鉄杭を打ち込むような状況ではなかったのだ。ところが、恭愍王は道士派遣に対し「『圧勝術(呪術を用いたり呪文〈じゅもん〉を唱えたりして陰陽説でいう禍福を抑えること)』を使うのではないか」と恐れていた。

 それから15年後の1385年のことだ。恭愍王は既に殺害され、高麗と元国の関係修復への動きなどで明国との関係は良くなかった。明国は徐師昊が開城の南方・陽陵井に建てた碑を確認させるため、使者・張溥を派遣した。石碑が建てられた後、病気・水害・干ばつなどが相次いだことから、高麗朝廷は石碑を倒してしまった。「圧勝碑」のせいだと疑われたのだ。このうわさが明国まで伝わったため、張溥に確認させたのだ。それから400年余りが過ぎた1797年、正祖は「徐師昊が(現・北朝鮮咸鏡南道)端川の懸徳山に5本の鉄杭を打ち込んで以降、北関(咸鏡道)に人材が出ない」という「鉄杭断脈説」を唱えた。だが、徐師昊は地脈を断ち切っていなかった。

 もちろん、実際に地脈が断ち切られた例はいくつかある。全州市内には「懐安大君」李芳幹(イ・バンガン)の墓がある。李芳幹は「第2次王子の乱」(1400年)で、弟であり後に太宗となる李芳遠(イ・バンウォン)に敗れた人物だ。懐安大君は全州で流罪になり、当地に埋葬された。問題は、その場所が「老鼠下田形(年老いたネズミが畑に降りてくる場所)の吉地(風水で子孫に良いことが数多く起こるとされる墓に最適な場所)だったということだ。後にこれを知った李芳遠は、山に灸を据えて地脈を断ち切らせた。今もその跡の一部が確認できる。それ以降、李芳幹の子孫たちは「自分たちはクワを持って暮らすしかない」と信じるようになる。地脈が断ち切られたのは事実だ。しかし、吉地そのものが壊されることはなかった。その地は今も全羅道の吉地と言われ、訪れる人が絶えない。

 では、このほかに、朝鮮の土地に鉄杭を打ち込んだのは誰だろうか? 李如松と日本人がその「主犯」として知られている。まず、李如松とは何者なのか。朝鮮の末裔(まつえい)で、明国の名門一族出身の武将だ。父親の李成梁は明国を守る中国東北・遼東地方で最高の武将だった。息子の李如松が壬辰倭乱(文禄の役)で朝鮮に出兵すると、「先祖の故郷だから救援に努めよ」と言ったという。

 「明史」によると、李如松は1593年1月に平壌城を奪還した。しかし「碧蹄館の戦い」(現・京畿道)で敗れて平壌に後退し、同年の9月に帰国する。一方、「朝鮮王朝実録」は李如松が1593年5月に聞慶(現・慶尚北道)まで下り、9月に帰国したと記録している(李如松自身が出征したのではなく、その指揮下の部隊が聞慶まで行った可能性もある)。確実なのは、李如松が朝鮮に滞在したのは1年にもならない短い期間だったという点だ。李如松に対する朝鮮朝廷の態度はどうだったのだろうか。彼は朝鮮を再建させた「再造朝鮮」の恩人だった。さらに、平壌に生祠堂(善政をたたえて本人が生きている間に建てる「ほこら」)を建てて祭り、朝鮮が滅亡するまでその子孫を世話した(李如松は朝鮮で「琴」という姓を持つ女性との間に子孫を残した)。その李如松が朝鮮の地脈を断ち切ったというのだ。「風水侵略史研究試論」で西京大学のソ・ギルス教授は「李如松は江原道・忠清道・全羅道・慶尚道などで40以上の地脈を断ち切った」という調査結果を発表している。だが、これらは李如松が足を踏み入れていない地域だ。

 「日本人鉄杭説」はどうだろうか。各地でこうした説が伝えられている。部分的に見れば蓋然(がいぜん)性がある場所もある。しかし、鉄杭を打ち込む位置や類型が違いすぎるため、日本が全国規模で組織的に行ったと見るのは難しい。その理由には次の2つがある。

 まず、19世紀後半に朝鮮を侵略するため、周辺列強国が真っ先にしたのは測量だった。1875年の雲揚号事件(江華島事件)も日本の朝鮮沿岸測量に端を発する。1895年には日本は200人以上の測量士を送り込み、全国を測量した。これに反発した多くの朝鮮人が犠牲になった。1912年に日本が三角測量を実施するにあたり通達した注意事項には「『三角点の標石の下に魔物が埋められたので災厄がやって来る』という流言飛語にだまされないように」という内容の文章がある。

 だが、それ以降も測量事業は植民地建設(道路・鉄道・新都市など)でさらに進められたため、国を奪われた人々は「魔物が埋め込まれた」と考え違いをするようになった。特に、先祖が眠る墓地のある裏山に三角点が設置されると「鉄杭」だと受け取られ、怒りを招くことになった。

 第二に、韓中日は3カ国とも山を信仰する思想が強く、名山大河を壊すような行為は禁忌とされてきた。山では官職者が祭祀を行った。八百万(やおよろず)の神がいるという日本も同じだ。「神が座し、神が降り立ち、魂がよみがえる」場所が山だ。明国が高麗を属国にした時に高麗の山河の祭祀を行ったように、日本も既に自国領土になっている朝鮮の山河に対しやたらなことはしなかった。それどころか霊山として知られている場所には神社を建て、神聖視した。

 つまり、「鉄杭」のうわさは国を奪われた人々の「主人意識の欠如と被害意識の産物」なのだ。では、現在はどうだろうか。全国の霊山の頂上にはどこにも高さ数十メートルという送受信塔が無数に建っている。これこそ大きな鉄杭ではないか。掘削機を使って山を平地にするなどということは全く話にもならない。地脈を完全に断ち切ることになるからだ。流れる川をふさぎ、山並みを壊して生態系を乱す行為だ。「李如松や日本人の鉄杭」に激怒する人々の中で、こうしたむやみな開発を懸念する人は少ない。これもまた、自分たちの土地を大切にしない「主人意識の欠如」ではないだろうか。

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