解放(日本による植民地支配からの解放=日本の終戦)70周年を前に、昨年の今ごろある決心をした。解放前の歴史、特に旧韓末(大韓帝国1897-1910年)の歴史を学び、「当時の我が国はなぜ滅びたのか」について整理してみようと思ったのだ。学べば学ぶほど頭の中が混乱したが、それでも一つの流れはつかんだ。我々にも国権を守る機会と情熱、才能があったのだ。「1年勉強してやっとその程度しか分からないのか」とおっしゃられるかもしれないが、私にとっては意味がある。「外国勢力の侵略・略奪のせい」「先祖が無能なせい」という両極端な主張に振り回されない自信が生まれたからだ。

 先日、先輩論説委員から国権喪失後の朝鮮陽明学者の悲惨な死を記録した貴重な論文をいただいた。ミン・ヨンギュ教授(故人)が1987年に書いた「江華学最後の光景」という論文だ。この論文を読みたいと思っていたのは、日本史を学ぶ際に得たこま切れの知識のためだ。命懸けで国を列強の仲間入りさせた明治維新の主役たちは陽明学の大きな影響を受けていた。陽明学は知行合一(知ることと行うことは表裏一体で切り離せないという考え方)を重視するので、実践家に合う思想だ。我が国にもそうした陽明学派がいたということが興味深かった。

 論文は、陽明学者の黄ヒョン(ファン・ヒョン、ヒョン=おうへんに玄)兄弟が国権喪失後34年の時差を置いて自決するところから始まる。どうしても命を絶てない同志たちは「氷雪に閉ざされた三千里の山野を転げるようにして」満州に向かい、「困窮の極みで葬儀はおろか棺おけを買う金もなく」次々と死んでいった。自ら安楽を捨て、死地を選びそこへ向かう最期の光景は小説より悲壮だ。著者は「動機の純粋さのため」と書いた。「最善を尽くしたからこの世に未練はない」という意味だろうか。「日本の帝国主義下に生きて何になるのか」という意味だろうか。黄ヒョンは自決の理由を遺書に「皇恩枯骨に及ぶからでなく、誰かにさせられたからでもなく、ただ悔しくて」と書いた。

 

 陽明学の門外漢なので深い意味を計り知ることはできない。ただ虚無だった。命をささげた日本の陽明学派も「動機の純粋さ」を重視したのだろう。しかし、彼らは動機と同じくらい重要な目指すべき所を持ち、死を通じて成し遂げた。我が国の陽明学派は何のために死んだのだろうか。彼ら以前にもこの国には喜んで命をささげた数多くの実践家がいた。ところが、両国の命の価値はなぜこれほど違うのか。勇気と情熱は同じなのに、我が国はなぜ滅んだのだろうか。識見不足のため一つを知ると十の疑問がわいてくる。

 歴史書を読めば読むほど、とにかく外国勢力のせいにする主張に興味をなくした。江華島条約から国権喪失まで我々には30年近い時間があった。歴史にも三振法が適用される。甲申政変・甲午改革・光武改革は貴重なチャンスだった。歴史書を読むほどに興味をなくす主張がもう一つある。朝鮮は国力が枯渇し、すでに滅びた国だったという宿命論だ。我が国を長年見てきた当時の西洋人たちは、一様に優れた才能、熱い教育熱、豊富な資源を高く評価していた。まだ強くはなかったが、強くなることができる国だった。その国で黄ヒョンはなぜ「人間世界の識者役は難しい」という絶命詩を残して死んだのか。

 本当に識者役が難しかった時代だったようだ。開花を夢見て政変を主導した当代の天才・金玉均(キム・オッキュン)は殺害された後、四肢を切られ全国でさらされた。改革を主導した朝鮮最後の領議政(議政府の最高官職)・金弘集(キム・ホンジプ)は失脚後、群衆の前に投げ出されて他殺された。外国勢力の暴挙だったとしたら、もっと虚無的でなかっただろう。胸が痛むのは、数多くの人材が改革を試みながら、仕えていた王により最期を迎えたことだった。王は改革により王権を制限された時、改革全体を放り出した。民族の情熱や才能も、天が与えた貴重な機会も絶対王権の前に30年間もがいたあげく、終わりを迎えて消え去った。無能な政治はこのように恐ろしいものだ。

 情熱と希望が枯渇した国には皇帝だけが残った。国権をよこせと要求する日本に対し、皇帝は「大臣と国民の意向を問う」と後に下がった。伊藤博文は「不可解なことこの上ない」と皇帝を嘲笑(ちょうしょう)した。「貴国は憲法政治でもなく、万機すべてを陛下が決定する、いわゆる専制君主制ではないのですか?」。この幻のような権力を守るために忠臣や改革を捨てたのか。

 旧韓末のことを語ると、「今は国力が違う」と人々は言う。それも事実だ。だが当時の我が国は国力が足りなくて滅びたのだろうか、それとも国力を育てる改革ができなくて滅びたのだろうか。考え方はそれぞれだが、民族の才能と情熱、改革の機会をまとめて国を引っ張っていくことができなかった政治のせいで滅びたのは明らかだろう。100年後の子孫たちが書き記す歴史に、今の私たちはどのような姿で書かれるのだろうか。歴史は我々の胸を痛くした分だけ教訓を与えてくれる。今年それを悟った。

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