「3.11(2011年3月11日に発生した東日本巨大地震)の後、誰も責任を取らないのは、実は日本が(第二次世界大戦で)敗戦したときと同じ構造が繰り返されているからだ。このような恐ろしい災害があったということだけでなく、発生の仕方や収拾の仕方、「(状況は)コントロールされている」という虚言、その虚言に国民の多数が従うという状況、これらは全て敗戦直後の「戦後復興」神話の構造が繰り返されているのだ。つまり1945年と2011年に起きたことは基本的につながった一本の線の上にあるということだ」(徐京植〈ソ・ギョンシク〉東京経済大教授)

 東日本巨大地震の発生から今年3月11日で満5年を迎える。日本の国土の10%が放射性物質で汚染され、15万人以上が被災する大惨事となった。2000日近い月日が流れたが、福島の災害はいまだ進行形だ。歴史に対する省察には時効などあるはずがない。今週だけで3冊の関連書籍が韓国で出版された。単純に原発に対する嫌悪や原発反対といった短絡的なスローガンではなく、われわれが見逃していた部分に対する警告と省察はないだろうか。

 『ふたたびフクシマに向き合うということ』(徐京植、鄭周河〈チョン・ジュハ〉他著、原題『奪われた野にも春は来るか-鄭周河写真展の記録』)は歴史的・芸術的な創造力を通じて団結の力を取り戻そうという試みだ。著者の一人である韓国の写真家・鄭周河氏は、大地震後の被災地域を撮影し、1年4か月にわたって日本の6か所で巡回写真展『奪われた野にも春は来るか』を開催した。今回出版される書籍には展示会場でのトークセッションの記録が収められている。

 写真展に企画段階から関わった知識人で在日韓国人の徐京植教授は、福島の原発事故と、日本による韓半島(朝鮮半島)の植民地支配を重ね合わせる。核心は「反省なき日本」。放射能災害は、日本が国策によって東京電力と共に全世界に及ぼした害だ、というわけだ。世界の海と世界の空気を汚染したのだから、当然全世界に向けて謝罪し、二度とそのようなことはしないと約束すべきなのだ。しかし日本は自国民にすらまともに謝罪しないまま時間だけが過ぎている、と同教授は指摘する。これは「ファシズム回帰」の兆候だ。

 『終わりなき危機』(ヘレン・カルディコット監修)は、福島原発事故の医学的・生態学的影響に関する最新の研究とエッセーをまとめたものだ。代表著者のヘレン・カルディコット氏は「医師としての社会的責任を追及するための組織」の共同設立者であり、反核活動家でもある。同氏は2013年3月、ニューヨークでシンポジウムを開催し、医学・生物学・原子力学・エネルギー学の観点からシンポジウムの結果をまとめた。同氏は「世界の主要メディアは放射能に関して恐ろしいほど無知だった」と批判し「安全な放射線量」などないと言い切る。「年間20ミリシーベルトまでは放射能にさらされても大丈夫」という日本政府の発表に真っ向から反論しているわけだ。年間20ミリシーベルトとは胸部レントゲンを1日3回ずつ1年間撮影した場合の放射線量に相当する。しかし(1)体に入った放射性元素は将来にわたり蓄積され、(2)子どもは放射線の影響による発がん可能性が成人の10-20倍に達し、(3)がんと白血病の潜伏期は5-10年であることから、福島の場合はここからが始まりだと警告する。

 『死者のざわめき』(磯前順一著)は被災地を4年かけて回った日本の人文学者のルポだ。著者の磯前順一・国際日本文化研究センター教授は文学と宗教学を専攻し、災害発生直後と4年後の日本国内の亀裂と格差について、苦痛に満ちた語り口で述べている。土木工事のような復興事業をきっかけに活発に動き出している仙台、住民が徐々に戻り始めた宮城県、そして帰還不可能な地域となった福島。日本全土が一丸となって「絆」や「頑張ろう」というスローガンを口にしていた復興初期とは様子が異なるというのだ。

 磯前氏は著書で、岩手県大槌地域の「風の電話」について触れている。東日本巨大地震で最も大きな被害を受けた地域の一つである大槌町の、ある高台に設置された象徴的な電話だ。「風の電話」は、もうこの世にいない「死者」と対話するために「生きている者」の心の中にある回線を使って話す電話だ。電話機の横にはノートが置いてあり、訪れた遺族が思いをつづることができる。そしてノートは訪れた人が誰でも読むことができる。

 生きている人と亡くなった人が直接向き合えば、耐え難い感情的エネルギーが噴き出すはずだ。そのため第三の存在、つまり通訳者、いわばシャーマンの役割が必要だ。『死者のざわめき』は、シャーマンかつ通訳の役割を自任する人文学者の鎮魂曲であり、生きている人に対する慰めでもある。

 ドイツの批評家、バルター・ベンヤミンの概念に「ボトルメッセージ」と「非常警報器」というのがある。離れ小島に流れ着いた人がガラスの瓶に入れて海に流す手紙。いつかどこかで誰かが拾ってくれるだろう。そして、より大きな危機と災難に対する警告。本書は人文と芸術と科学の言葉で書いた2016年のボトルメッセージであり、非常警報器である。

ホーム TOP