先月27日に公開された韓国映画「仁川上陸作戦」が、一部で「クッポン」という評価を受けている。クッポンは「国家」(韓国語でクッカ)と覚せい剤「ヒロポン」の合成語で、クッポン映画とは過剰なナショナリズムを広げる狙いで作られた映画という意味になる。過去の記事を見返してみると、「国際市場で逢いましょう」(原題:「国際市場」)や「延坪海戦」が同じようなことを言われており、李舜臣(イ・スンシン)将軍率いる朝鮮水軍と日本水軍の戦いを描いた「バトル・オーシャン 海上決戦」(原題:「鳴梁」)、旧日本軍の慰安婦問題を扱った「鬼郷」も「クッポン・マーケティングに依存した」などと評価された。中でも、北朝鮮と対立するストーリーや6・25戦争(朝鮮戦争)を扱った映画は、往々にしてクッポンというレッテルを貼られることが多い。

 この種の映画に辞書にも載っていない侮蔑的な表現を使うのは、作品の完成度や芸術性とは関係なく、そこに表れた世界観を問題視しようとする意図が感じられる。国家を中毒性の強い違法な覚せい剤になぞらえて否定的なニュアンスを最大化する裏には、「見るな」という非常にはっきりとしたメッセージが込められている。

 この言葉を使う人々は、映画1本で人の意識がまひするかもしれないと本当に思っているのだろうか。クッポンという言葉を聞くたびに「昔の子どもたちは虎患(虎に襲われること)、媽媽(ママ=天然痘)、戦争などが一番怖い災害だったが、現代の子どもたちは無分別な違法ビデオを視聴することで非行青少年になる」と言っていたころの単純な論理が思い浮かぶ。全体主義的な世界観を擁護するつもりは決してないが、作品の出来不出来に関係なく、ただ北朝鮮との戦争、南北対立が鮮明な特定の映画だけをクッポンなどと評することもまた、十把(じっぱ)ひとからげの扱い方だ。

 国が何をしてくれたわけでもないのに、愛国心ばかりを強調することを不快に感じる人もいるだろう。いわゆる「88万ウォン(約8万円)=20代の非正規労働者の平均月給=世代」の間で、出口のない無限競争に疲れた若者が幸福な人生を求めて韓国を離れるという内容の小説「韓国が嫌いで」が話題になるかと思えば、あらゆることを「泥スプーンVS金スプーン」という階級論で捉える見方がまんえんし、経済的な理由から結婚をしない、または延期する若者がそこここにいる。こうした状況では、国の何が重要なのかと考えるかもしれない。しかし一方で、公務員の職を切望するたくさんの若者たちを見ると、国家が今や安定した職場という存在に落ちたかのような気にもなる。

 今のような状態で国に対して厳粛主義的な態度を強く求めるなど、世情を知らない人かもしれない。チン・ギョンジュン検事長をはじめ、国の権力をためらいなく蓄財手段に活用するお偉いさんたちが健在であることが判明し、いくらプライベートな席とはいえ「99%の民衆はイヌやブタ」と口にする高官がいるのに、何が愛国だと言われれば、返す言葉がない。

 一方ではクッポンと言って国をこき下ろし、もう一方では私利私欲のために自分の地位を利用している間に、私たちが守るべき国はどこへ行ってしまったのか。「仁川上陸作戦」のような映画は、むしろこんな国の「意味を探す」という観点で見るべきではないだろうか。

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