大田地裁が26日、韓国・浮石寺(忠清南道瑞山市)に引き渡すよう命じる判決を下した「観世音菩薩坐像」は、2012年に韓国の文化財窃盗団が日本の長崎県対馬市の寺「観音寺」から盗み、韓国にひそかに持ち込んだものだ。窃盗団はこの時、仏像2体を対馬から違法に持ち込んだ。もう1体の「銅造如来立像」は韓国で所有権の主張がなかったため、2015年7月に対馬の海神神社に返還された。

 しかし、観世音菩薩坐像は浮石寺が「もともと我が寺の仏像だから返してほしい」と要求、5年間にわたり所有権争いが続いていた。浮石寺が韓国政府を相手取り訴訟を起こすと、大田地方検察庁は文化財庁に調査を依頼した。文化財庁は専門家21人からなる調査団を設立、2014年9月から4カ月間調査を行った。仏像を韓国に持ち込んだ経緯が争点だった。文化財庁は「浮石寺で仏像が作られたのは確かだが、略奪されたという決定的な証拠はない」という結論を出した。観音寺の観世音菩薩坐像は長崎県指定有形文化財で、15年に返還された銅造如来立像は日本国指定重要文化財だ。

■「略奪の蓋然性が高いが、断定は難しい」

 本紙が入手した文化財庁の調査報告書によると、仏像の製作時期は1330年(高麗第27代・忠粛王17年)、製作地は浮石寺だという。報告書は「1951年に対馬の観音寺菩薩像内部で発見された『仏像結縁文』が根拠となって製作時期と奉安された寺の位置を知ることができる。仏像様式も14世紀前半に流行した像の形に倣っている」としている。

 ところが、日本に渡った経緯については、「倭寇に略奪された可能性が高いが、直接これを立証する資料は見つかっていない」と書かれている。「『高麗史』の記録によると、高麗末期に倭寇の侵略が深刻で、1352年から81年まで5回にわたり瑞山一帯で倭寇が侵略したとされている。観音寺の「沿革」では、1526年ごろこの寺に仏像が奉安されたことが確認されている。倭寇が略奪したという蓋然(がいぜん)性は高いが、これを断定するのは難しい」ということだ。しかし、浮石寺側は「仏像が1330年に浮石寺で製作されたのは確実で、14世紀に倭寇が西海(黄海)岸によく出没していたため、略奪された可能性が高い」と主張した。

 判決文によると、仏像の内部から発見された結縁文、観音寺の沿革略史と高麗史、仏像に残っている焼けた跡などが浮石寺の所有を認める主な根拠となった。大田地裁は「韓国の寺では仏像を補修したり移動したりする際、関連する新たな記録・遺物を入れる伝統がある。こうした資料がない場合は、盗難や略奪など正常でない方法で変更されたものと見なすことができる」と明らかにした。財団法人「西日本文化協会」が発行した図書「対馬の美術」に日本人教授が書いた寄稿文も主な根拠になった。「観音寺の沿革によると、この寺の創設者は倭寇と推定され、倭寇が建てた寺に高麗の仏像があるということは、倭寇が仏像を一方的に請求(略奪)したことを推測させる」という内容だ。焼けた跡や仏像が一部損傷した状態である点も略奪の証拠と見られるとしている。

■「略奪文化財でも法に従い返還すべき」

 しかし、韓国の専門家の多くは「例え略奪された文化財だとしても、適法な手続きによって返さなければならない」と話す。西江大学のカン・ヒジョン教授は「具体的な略奪、持ち込み経緯の確証がないまま仏像を『略奪文化財』に認定したことから、国際的な信用をなくしたのはもちろん、今後、日本などとの文化財交流における影響は少なくないだろう」と懸念した。匿名希望の国際法専門家は「フランスが略奪していったことが明白だった外奎章閣(朝鮮時代に歴代国王に関する文書を保管していた奎章閣の付属図書館)図書とは全く別の問題だ。略奪されたという確証がなく、韓国人が盗んできたことがはっきりしている文化財を「韓国のものだ」と主張するのは国益のためにならない」と述べた。

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