【新刊】パク・サンフィ著『ソンビ、サムライ社会を観察する』(創批社)

 10月10日から済州島で開かれる観艦式に日本の海上自衛隊が旭日昇天旗を押し立てて参加する問題を巡り、海自は韓国海軍と対立した末、不参加を通知してきた。両国は慰安婦動員や朝鮮人強制徴用問題でも、植民地支配の影を容易には取り払えずにいる。在日韓国人3世の学者として韓日両国を行き来しつつ学び、現在は中国の中山大学で東アジア交流史を研究している著者は、両国関係改善の答えを壬辰(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)後の朝鮮と日本の和解努力に見いだしている。1590年から1764年までのおよそ170年にわたり日本との間を往復した朝鮮のソンビ(学者・文人)が書き残した見聞記35件の記録を通して、著者は、朝鮮のソンビの対日認識が劇的に変化したことを確認した。その過程で両国の知識人が傾けた努力も本書に収められた。

 最初は敵意が和解しようという気持ちを押さえ込み、同質性よりも違いの方が目立った。丁(ていゆう)再乱(慶長の役)のとき日本に連れてこられ、3年間抑留されたカン・ハンが、彼らの野蛮な死生観を批判したのが代表例だ。「生を好み死を嫌うのは人であれ物であれ同じ気持ちなのに、日本人だけが死を好んで生を嫌うとはどういうことか」(好生而悪死、人物同此心、而日本之人、独好死悪生何也)」。(『看羊録』)

 だが交流が重なると、朝鮮のソンビは日本人がじっと隠していた生に対する愛着を読み解き、儒教的な仁を共になす隣人として彼らに接し始めた。父と子が互いを信じず刀を帯びて対座するのも、自らを守れなくなるほど酔わないよう酒を節制するのも、命を大切にするからだということを看破した。サムライが主君のために命を投げ出すのは、忠誠を扶持(ふち)と交換しなければならないからで、戦死するとき刀を顔で受けるのは、逃げて背中に刃を浴びては残った家族が生活苦に陥るからだった。

 1760年に訪日したソンビの元重挙(ウォン・ジュンゴ)が見た日本は、カン・ハンが伝えた日本ではなかった。江戸幕府は儒学を奨励し、武士であっても公共の場所で刀を抜くことを禁じた。日本人は、通信使の到来を祝う大砲の音に驚いて耳をふさぎ、逃げ散るほど柔弱になっていた。

 日本は、壬辰倭乱の過ちも機会があるたびに謝罪した。18世紀の日本の文人・那波魯堂は、朝鮮通信使との対話の場で「秀吉政権は朝鮮よりも日本により大きな害を及ぼした。どうして朝鮮の怨讐(おんしゅう)にとどまるだろうか」と語った。朝鮮のソンビの対応は「許すが忘れず」だった。元重挙は『和国志』に、壬辰倭乱の際における日本の部隊編成、戦争に参加した武将の名前と職責、各部隊が殺した朝鮮人の数などを細かく記録して「私が必ずこれを記録しようとする理由は、すなわちそれを忘れないようにするため」と記した。それでも、日本人が「われわれに復讐しようというのか」と尋ねると「日本に対しては恩があるのみで、恨みはない」とし、両国の和解を力説した。通信使らが朝鮮に戻るときになると、日本の文士たちが見送りに来て惜別の涙を流した。

 「日本から学ぼう」という動きも起こった。カン・ハンは農民と武士を分離して軍事力を養う日本のように、朝鮮も兵農を分離して職業軍人を養成し、長期間服務する「久任」の制を実施しようと提案した。朝鮮王朝のローテーション補職制度は地方官の搾取を助長しているとして、日本のように一つの職責を長く務めるようにしたり、あるいは終身制を導入したりして、責任行政を実現しようという主張も持ち上がった。朴斉家(パク・チェガ)は『北学議』において、「日本が富み、軍事力が強くなったのは、十分に外国と交通するから」だとして、日本を手本として通商に乗り出すべきだと記した。著者は、こうした提案が実現し得なかったところに残念な思いが残る、と指摘した。

 本書を読んで、歴史は繰り返すと思わずにはいられない。関ケ原の戦いや大坂夏の陣で徳川方の東軍に敗れた豊臣勢力は、歯を食い縛って時を待ち、遂に明治維新を起こして江戸幕府を倒した(原文ママ)。薩摩・長州の両藩が主軸となった明治政府は、最後には朝鮮を飲み込み、それまでの和解の努力を水の泡にしてしまった。彼らは今も日本政治の中心を形成している。安倍首相も山口出身だ。日本の旭日昇天を叫ぶ彼らに、江戸時代の和解精神を学べと勧めたい。444ページ、2万5000ウォン(約2520円)。

金泰勲(キム・テフン)記者

ホーム TOP