韓国社会の底流を説明する単語の一つが「嫌悪」だ。男女や老若、貧富に分かれて互いを憎むのはもちろん、中国朝鮮族や脱北者に対しても容赦なく不信と敵意の視線を向ける。こうした「嫌悪」の感情を克明に示す新造語が「虫」だ。反感を持っている対象の後ろにこれを付けて、侮蔑と軽蔑の意味を付与する。

 例えば、子どもを育てる既婚女性は「ママ虫」で、韓国の男性は「韓男虫」だ。学校給食を食べる10代は「給食虫」で、逆に高齢者層は、入れ歯(トゥルニ)をかちかち(タクタク)いわせるということで「トゥルタク虫」と呼ばれる。「われらは、われらの敵を憎む者を愛し、そしてもしわれらが敵を持たなければ、われらの愛すべき人は極めて少なくなってしまう(We love those who hate our enemies, and if we had no enemies there would be very few people whom we should love.)」という英国の哲学者バートランド・ラッセルの嘆きは尋常ではない。

 なぜ韓国人は、死のうが生きようが互いを憎むのだろうか。憎悪の感情を拡散させるたき付けを見いだすことは、さほど難しくない。面前では口にし得ない卑劣な悪口や陰口を許容する匿名のオンライン空間がまずあるとするなら、当面の人気のために水火も辞せず刺激的な発言をぶちまける政治家の低劣な計算がその後に続く。もっと難しいのは、嫌悪の根本的な発火原因を把握することだ。

 かつて韓国は、産業化と民主化という至上課題が存在する社会だった。この目標を共有するかぎり、韓国人は同じ垣根の中の同胞にして家族だった。競争相手や抵抗の対象は、先進国や少数の政治軍人のように「垣根の外」にいた。その時代への切ない郷愁を込めた映画が『国際市場で逢いましょう』と『1987』だ。産業化と民主化という目標にたどり着いた瞬間、韓国社会が的のない矢のように力を失い、墜落していることこそ、もの悲しき逆説と言える。

 構成員が同じ方向を見るということがないから、お互いの姿ばかり観察するようになる。パイがもっと大きくなるという楽観や期待が消え、限られたパイの大きなかけらを手に入れたいという欲望にばかり関心が注がれる。他人の損害が自分の利益、自分が譲ったらいい目を見るのは他人だけ、というわけだ。嫌悪は低成長時代の陰鬱(いんうつ)な肖像である可能性が高い。

 票のためには国の資産を食いつぶしてもいいという人気迎合主義と、憎悪をたき付けて政権を取ろうろするファシズムの心理も嫌悪をあおっている。欧州で中道系の既成政党が力を失い、極左・極右勢力が猛威を振るっている理由でもある。先進国の利点のみを学べばよいものを、失敗の原因や副作用までそっくりそのまま似つつある格好だ。「われわれが火星からの侵攻の脅威にさらされていることを示し得ないかぎり、ロシア人もまた兄弟だと言っても説得はできない」というラッセルの言葉のように、韓国人は外交的な対立や軍事的な緊張があるときにのみ団結するのかもしれない。嫌悪の感情を洗い流すためには、再びワールドカップの開催でも推進しなければならないところだ。

キム・ソンヒョン世論読者部次長

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