日本政府と民間が官民一体で1兆円をつぎ込んだ旅客機国産化事業「スペースジェット」が挫折の危機に直面した。

 事業を主導する三菱航空機は15日、要員と組織を大幅に縮小すると発表した。社員2000人の半分の1000人を削減する。社長は今年2月に辞任したが、過去5年間で3回目の交代となる。海外事務所も大半を閉鎖することにした。

 スペースジェットは2000年代半ば、日本の経済産業省主導で始まった国家プロジェクトだった。日本の産業力を結集し、90席規模の小型旅客機を国産化することを目標に掲げ、08年に正式にスタートした。当初の開発費は1500億円で、引き渡し開始予定は13年だった。しかし、開発費は当初の7倍の1兆円まで膨らみ、引き渡し時期も6回延期され、計画より9年遅れ、22年に先送りされた。さらに新型コロナウイルスまで流行した。累積赤字に加え、旅客機を購入してくれる市場までが消滅し、事業自体が空中分解しかねないという懸念が日本国内でも高まっている。

■崩壊する日本の航空産業国産化

 日本の航空機産業に対する夢はとりわけ大きかった。第2次世界大戦初期に三菱重工業が作った零式戦闘機が当時の米国の戦闘機を性能的に圧倒していたように、航空機開発の歴史も長い。しかし、敗戦後、米軍政が7年間にわたり、航空機の生産と開発を禁止し、打撃を受け、産業基盤も崩壊した。

 2008年にスタートしたスペースジェット事業は日本のプライドを取り戻す事業だった。政府が開発費の3分の1に当たる500億円を拠出し、三菱重工業が子会社三菱航空機を設立し、事業を主導することにした。主な出資者は三菱重工業、トヨタ自動車、住友商事、三井物産、日本政策投資銀行などで官民一体の野心に満ちたプロジェクトだった。しかし、事業は思うようには進まなかった。当初13年と見込んでいた引き渡し時期が5回の延期の末、今年まで遅れ、今年2月にはさらに22年まで延期するという6回目の発表があった。

 計画に支障が生じ、赤字も雪だるま式に膨らんでいる。三菱航空機の親会社、三菱重工業の業績報告書によれば、スペースジェット事業の赤字は18年の852億円から昨年は2633億円に拡大した。今年は要員、費用を大幅に削減し、赤字を圧縮する計画だったが、それでも1300億円の赤字を見込んでいる。最近3年間の赤字だけで4785億円に達する。スペースジェットの業績不振で三菱重工業も昨年、20年ぶりの赤字に転落した。

 採算性に対する懐疑的な見方はこれまでもかなりあった。民間航空機市場は長距離国際線を中心とする中型・大型機(130席以上)と相対的に短距離を飛ぶ小型機(130席未満)に分かれるが、スペースジェットは小型機の中でも座席が100席以下の「リージョナルジェット」に属する。リージョナルジェット市場は民間航空機市場の5%にすぎない。それでも日本は小型旅客機を足掛かりに航空機市場全体を育てることを目指し、市場への新規参入を試みた。

 その上、リージョナルジェット市場の80%を掌握するカナダのボンバルディア、ブラジルのエンブラエルをそれぞれエアバスとボーイングが買収し、市場に牙城を築いた。中国までリージョナルジェットと中型旅客機を開発し、自国中心の普及に乗り出し、スペースジェットの立つ瀬はますます狭まった。

■半導体・LCD連合に続く3度目の失敗に終わるのか

 日本政府主導でつくった企業連合を意味する「日の丸連合」の危機は今回が初めてではない。20年間に3回の失敗があった。日本は1999年にNEC、日立製作所のDRAM事業を統合し、エルピーダメモリを設立した。当時半導体市場を掌握しつつあった韓国を打倒し、1980-90年代の半導体産業の栄光を取り戻す狙いだった。2003年には三菱電機のDRAM事業を吸収し、企業規模を拡大したが、時間がたつにつれ敗色が濃厚となった。日本政府は09年、エルピーダに公的資金300億円を投入して支援を行ったが、結局エルピーダは12年に破産を申請。13年に米マイクロンに吸収されて消滅した。

 エルピーダが破産した12年にはソニー、東芝、日立の液晶ディスプレー(LCD)事業部を統合し、ジャパンディスプレイ(JDI)が設立された。半導体と同様、LCD事業でも韓国に押されたことから、政府主導で各社のLCD事業を束ねて勝負する狙いだった。しかし、数千億円を新規投資しても韓国には追い付けず、結局はアップルとの納品条件で失敗し、赤字が膨らんだ。経営難の末、JDIはLCD事業を大幅に縮小し、今年には主力工場まで売却した。

■1964年東京五輪の栄光再現を目指した安倍の夢消える

 スペースジェット事業は日本人に1964年東京五輪の栄光を思い起こさせる。日本は1962年に最初の国産プロペラ旅客機YS-11の初飛行に成功した。当時は官民出資の日本航空機製造が開発を担当した。YS-11は64年に東京五輪の聖火輸送に使用され、同年に開通した世界初の高速鉄道、新幹線と共に日本国民にとって戦後復興の象徴だった。YS-11はその後、ジェット旅客機に押され、73年に生産が中断され、2006年に運航を終了した。

 スペースジェットはどれだけ遅れても東京五輪が開催される今年までに引き渡しが始まる予定だった。五輪が予定通り開催されていれば、64年に続き、再び聖火輸送に国産旅客機が使用される可能性もあった。64年当時小学校4年生で東京五輪を経験した記憶を最高の思い出と語る安倍首相が再び日本復興の栄光を世界に知らしめる最適の材料になるはずだった。

 ところが綿密な分析が欠けたままで始まった政府主導のプロジェクトは大切な税金と企業のリソースを浪費したまま、災いとなって終わる可能性が高いという分析が示されている。政府が税金をつぎ込み、競争力で劣る事業を統合させたところで、民間のリーダーシップが支えなければ、良い結果は期待できないとの意見もある。2017年に三菱重工業の宮永俊一社長(現会長)は「開発に入る前に情報収集とリスク分析についてもっと学ぶべきだった」と後悔した。

崔元碩(チェ・ウォンソク)国際経済専門記者

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