文在寅(ムン・ジェイン)大統領が先週、韓国土地住宅公社(LH)をめぐる問題について謝罪するのを見て、友人のことを思い出した。親族や従業員名義の資産や銀行口座を持つ、金持ちの家の娘婿になった人物だ。時には貧しい親族たちが借名口座から金を引き出したり、財産を売って金を受け取ったりもしたという。そうしたことを見て、彼は自身の誠実さを振り返った。

 「私も同じことをするだろうかと考えさせられた。もし自分の金ではない3億ウォン(約2900万円)を引き出すことができるなら、私はそれを取るだろうか? 完全に合法的だろうし、誰も痛手は負わない。事実、実際の持ち主は大金持ちだから、金がなくなったことすら分からないかもしれない」。しかし、彼は不正直な借名制のせいにして個人の不正直さを正当化してはならないと結論付けた。自分と妻をはじめとする家族たちの間で、また教授だった自分のことを師と仰ぐ若者たちとの間で結んだ関係に、目に見えない罪悪感の壁を築く行為だからだ。そのような考えの根っこには、どのような「完全犯罪」にもたった1人の証人、つまり神がいらっしゃるという深い確信があった。彼は神と社会、自分自身に対して清廉を守ることこそ、京畿道・東灘新都市の新しいマンションや6年分の米国での学費以上の価値があると判断したのだ。

 内部情報を利用して新都市開発予定地の土地を購入したLH職員たちはなぜあんなことをしたのだろうか? 清廉になれなかったのだろうか? 良心がないのだろうか? 我々は皆、特権を乱用することは間違いであることを知っているのに、なぜこのような腐敗は後を断たないのだろうか? 法があいまいだったり、処罰が軽かったりするから? 一部の不道徳のため? 我々の道徳律が乱れているからだろうか?

 答えがどうであれ、我々は政府が何かをしてくれることを期待している。しかし、政府はこのような問題の解決が下手だ。文大統領は任期当初から「民間と公共部門から腐敗を一掃する」と言っていた。ろうそくデモにより打ち立てられた現政権は、自らを「腐敗と繰り広げる戦争における道徳的に優れた戦士」と称して前面に押し出した。大統領の真意を疑う理由はない。だが、それと同時に、朴正熙(パク・チョンヒ)、全斗煥(チョン・ドゥファン)、そしてそれ以降民主的に選出された大統領たちの誠意も疑う理由がなかった。彼らはすべて、統治初期は腐敗に立ち向かった。

 韓国が少しずつ良くなりつつあることも事実だ。しかし、政治家たちがこの問題を解決する適任者なのかは疑問だ。政治家は腐敗を武器のように使う。「他人を攻撃するために使うことができればOK、私を攻撃するために使われるなら隠さなければ」といった具合だ。彼らにとって腐敗の改善は、政治的に有利か不利かに比べ、副次的な問題だ。腐敗清算キャンペーンが成功していない理由はここにあるのかもしれない。

 違法でずさんな建築の結果として、1994年に聖水大橋、1995年に三豊デパートが崩壊したのを覚えている。日常の構造物が我々を殺す可能性があるという不安はどれほど大きかったことか。ところが、LH問題に見られる通り、韓国社会は依然としてそのような不安を抱えている。法務部長官が正義の人なのか、税務公務員が正直に税金を扱うのかは、問う必要もないはずだ。だが、我々はその質問をし続けている。

 では、どうすべきなのだろうか? この問題をめぐる議論は、同じ国民に対する非難ではなく、共感から出発しなければならないと私は考える。身近な腐敗の多くが、我々特有の道徳的な善の観念に歴史的根源を置いていることを認識するのが出発点だ。例えば、1950年代の官僚たちはろくに給料を受け取れなかった。富裕層である彼らは清廉でいることができたが、ほとんどは自身が持つ権限を利用して金を稼がなければならなかった。酒を飲んで賭博をするために? いや、そうではない。子どもたちを食べさせ、より良い生活ができるよう教育するためだった。

 彼らにとっては大家族だけでなく、社会的なつながりの中にある人々を助けなければならない道徳的義務があった。議論の余地こそあるが、彼らにとってはそれが「国家」だった。大家族と所属集団は、彼らが負う道徳的義務の受益者だった。

 腐敗の根源を抜本塞源(そくげん)するため、我々は「かつての世代の道徳的義務は今はもうない」ことを自分たちに教え込まなければならない。家族は以前に比べてはるかに小さくなり、今では自分が金を稼いでいるからと言って、親族の生活まで支える必要もない。 「国家」は今、大家族ではなく、国全体だ。現代の大韓民国は誇りを持つのに値する国である。子孫たちはこの国を建設するのに苦難を味わってきた人々に感謝しなければならない。韓国は偉大な国であり、この国の高齢者たちは韓国の歴史の真の英雄世代だ。

 我々は今、以前のように家族ではなく、同じ国民として道徳的に結束している。例え彼らのほとんどが完全な他人であっても、だ。この複雑な現実を尊重する方法は、我々自身の清廉さを自ら診断し、互いを欺くのを正当化することに道徳的な物差しを使わないことだろう。

マイケル・ブリーン元ソウル外信記者クラブ会長 『韓国、韓国人』著者

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