▲北朝鮮の金正恩(キム•ジョンウン)総書記が1月1日、朝鮮少年団第9回大会の代表らと記念写真を撮影している。2023年1月2日、朝鮮中央通信連合ニュース

 心血管疾患の高危険群にとって、ストレス管理は生死に直結する問題だ。晩年の金日成(キム・イルソン)主席は総体的な経済難、特に電力難で頭を悩ませた。1994年7月5日、経済部署の幹部を妙香山に集め「咸興、海州に重油発電所を建設しなければならない」とタービン発電機を準備するよう促した。希望する答えが返ってこないのを見て、実務陣を連れてくるよう命じ、ヘリコプターを用意させた。会議が終わった後も、ヘリコプターは準備できたのか、どこに向かっているのか、実務陣はいつ着くのか、しきりに問い詰めた。書記室責任書記のチョン・ハチョル氏は、夜9時まで金日成主席の電話の対応に追われた。

 会議の2日目、金日成主席は電力、肥料、ビニロン、セメント、船舶など部門別に満機親覧式(王が全ての政に深く関心を持つこと)の指示を下し、突然「突破口を開かなければならない労働者たちが事務室に座ってむなしく歳月を過ごしているのは残念だ」と述べた。顔色は暗く、声はかすれていた。金日成主席は左胸をたたいてたばこを取り出そうとした。1本吸った金日成主席は「吸わなかったたばこまで吸うようになった」と小言を並べた。「心遣いの感じられる口調」だったとチョン・ハチョル氏は記録した。金日成主席は7月8日午前2時に死亡した。心筋梗塞だった。

 金正日(キム・ジョンイル)政権末期の最大の話題は「強盛大国」だった。全ての機関や団体が2007年から「首領誕生100周年(2012年)に強盛大国の門を開けよう」と合唱した。強盛大国の「中心的事業」と宣伝したのが熙川発電所だ。慢性的な電力難を一挙に解決できるとし、2009年3月に工事に取り掛かった。脳卒中の後遺症に苦しんでいた金正日総書記は、サポートを受けながら山の建設現場を8回訪れた。10年かかると言われていた工事が3年で終わった。労働新聞は「熙川速度」という新造語で埋め尽くされた。

 無理な工期短縮は、手抜き工事へとつながった。虚偽報告にだまされた金正日総書記だけが、この事実を知らなかった。2011年12月中旬になってようやく「漏水が深刻だ」という報告が上がってきた。強盛大国元年が目前だった。気分を大きく害した金正日総書記は12月17日早朝、現地視察を急いだ。平壌が氷点下13度、慈江道熙川は氷点下30度を下回った。2日後、アナウンサーのリ・チュンヒ氏は「金正日同志が超人的な現地指導を行ったことで重なった精神的、肉体的過労により、列車内で殉職した」と発表した。心筋梗塞だった。

 こうした家系を受け継いだ金正恩(キム・ジョンウン)総書記は、高度の肥満に酒やたばこが大好きという。祖父や父よりもストレス管理に気を使わなければならない。金正恩総書記の人生最大のヤマ場は2019年2月だった。ハノイまでの4500キロを列車で66時間旅行する余裕を見せた。「手ぶらでの帰還」は誰も想像できない衝撃だった。平壌行きの列車の中で「一体何のために、このような列車旅行を再び行わなければならないのか」と怒りをあらわにした。

 最近の金正恩総書記の核暴走は、ハノイの屈辱を繰り返さないための布石だ。次回の対米談判に向け必勝カードにするといった計算だ。ところが、数日前の全体会議での発言は意外だった。「2022年が決して無意味ではない時間であり、明らかに私たちは前進した」と語った。同意しない人々を説得する口調だった。また「敗北主義を清算するために闘争してきたにもかかわらず、古い思想が経済労働者の中にまるで慢性病のようにはびこっている」と話した。決まりが悪かったようだ。

 金日成主席・金正日総書記の晩年を押さえ込んだのは経済難と事なかれ主義の官僚たちだった。共和国外交の金字塔とも言うべき核拡散防止条約(NPT)脱退とジュネーブ合意も、米国帝国の鼻をへし折ったという核とミサイルも、全ては無駄だった。核が多くなるほど「ごちそう」は遠ざかり、面従腹背(うわべだけ上の者に従うふりをしているが、内心では従わないこと)がまん延するだろう。談判が再び開かれるとしても、米国が気軽に体制保障と経済補償をしてくれるかどうかは断言できない。金正恩総書記も、もうすぐ40歳を迎える。2回目のノーディール(失敗)は、非常にしのびがたいものとなるだろう。核だけを見つめることが果たして最善なのかどうか、真剣に悩む時だ。場所としては暖かい元山の別荘(金総書記は元山に別荘を持つ)がおすすめだ。

イ・ヨンス論説委員

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