▲国立国楽院の忘年公演「壬寅進宴」。/写真=国立国楽院提供

 朝鮮王朝時代、国王の誕生日の宴はどのようなものだったのだろうか。昨年12月に国立国楽院で開かれた「壬寅(じんいん)進宴」は、その気になるところを解消してくれる舞台だった。「壬寅」とは「みずのえとら」年、「進宴」とは宮中で催される宴のことを指す。実際、この公演は1902年の高宗即位40周年と51歳の誕生日を記念するために開かれた宴を、100分前後に再構成したものだ。このため壬寅進宴は、朝鮮王朝500年の最後の宮中宴とも呼ばれる。

 視覚的に、また音楽的に、この日の舞台は感嘆を呼ぶ部分が少なくなかった。とりわけ、宴の主人公である高宗の視線から見ることができるよう、舞台の最前列の御座を空にして舞台側に向けて据えた点が印象的だった。演出・舞台美術を担当したパク・トンウ弘益大学教授の言葉の通り、「観客が皇帝の視線で公演を見ることができるようにした」のだ。

 また、国立国楽院正楽団・舞踊団などおよそ140人を総動員し、宮中舞踊と音楽の精髄を実感できる総合芸術の舞台となった。とりわけ、「漁父詞」を歌いながら船を取り囲んで舞う、最後の「船遊楽」の場面は、華麗な色彩と優雅な動きが調和し、それ自体で壮観だった。

 120年ぶりに再現された宮中宴会だが、肝心の公演が終わるころには、うれしさよりもむしろ深いやるせなさが残った。韓国近現代史の緊迫した年表が思い浮かんだせいだ。壬寅進宴が開かれた1902年は、第1次日英同盟が締結された年に当たる。国境を接したことのない英国と日本が意気投合した理由は明らかだ。ロシアの勢力拡大を阻止するための、両国の利害関係が一致したのだ。

 その後、日本は日露戦争で勝者となり、朝鮮併合の野望を本格化させた。ついに1905年、朝鮮王朝は乙巳勒約(いっしろくやく。第2次日韓協約)で外交権を奪われ、1910年には国権すら失ってしまった。国王の安泰(万寿無窮)と太平の世(太平聖代)を祈ったが、数年もたたずして空念仏と化したわけだ。

 高宗と大韓帝国に対する歴史的評価ほど、学界で見解が全く食い違っている争点も珍しい。一方では、近代化と自主国家を心から願った名君と描写する。「大韓帝国は無能だから滅びたのではなく、高宗の近代化事業を撲滅しようとした日帝の計略の犠牲になった」(李泰鎮〈イ・テジン〉ソウル大学名誉教授)という主張が代表的だ。だが、亡国の責任がある暗君あるいは昏君だという批判も根強い。「高宗には王政を克服しようとする意識が足りなかった。大韓帝国では売官売職が横行し、腐敗で汚れていた」(キム・ジェホ全南大学教授)といった評価がこちらに属する。

 名君であるか暗君であるか、判じるだけの能力はないし、そういう立場にもない。だがここには、悲しき事実がもう一つある。なんと現在の政府機関内でも意見は食い違っている、という点だ。今回の公演を主催した国立国楽院では「自主国家を心から願っていた大韓帝国の最後の宮中宴会」という歴史的意味を付与した。逆に、当時の宮中宴会の手順や儀式を記録した「進宴儀軌」を所蔵している国立中央博物館のホームページは、こんな記述で終わる。「1902年の2度にわたる宴会で、大韓帝国の年間予算の9%に当たる費用が使われた。盛大な記念の宴による業務の空白と莫大(ばくだい)な費用はそのまま民に転嫁され、以後の近代化のための改革も実効を得られぬまま、国運は傾いていった」

 冷酷な国際秩序を度外視したまま王室の安寧を祈ることがどれほどむなしいかを示す、これこそ「壬寅進宴」の歴史的意味ではないだろうか。そういう意味では「反面教師」の教訓を想起させる舞台になった。今、韓半島を取り巻く状況はおよそ120年前とどれほど違うのだろうか。

キム・ソンヒョン記者

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