▲グラフィック=パク・サンフン

高麗人の若者6人、1年6カ月に及ぶ韓国での避難生活を語る

 「私にとって最も大切なのは祖父、祖母、そして親戚です。大切な家族が全員来られればよかったんですが。それが一番残念です」

 家族のことを思い出しながら話を続けようとして、18歳の少女キム・カッチャさんはあふれ出る涙をこらえるように、しきりに目を上に向けた。「韓国に避難するときに持ってきたもので、最も大切なものは何か」と尋ねた時は「スマートフォン」と答えて明るく笑っていたが、家族の話になったとたん、目が真っ赤になった。キム・カッチャさんは「ウクライナに代父(カトリックで生まれた子どもの洗礼や堅信礼に立ち会い、受洗者の神に対する約束の保証者となってその宗教教育に責任を持つ男性)がいるんですが、軍隊に招集されて以降、行方が分からず連絡が取れない状態です」として「家族や親戚も、代父がどこにいるのか、生きているのか死んでしまったのかも知るすべがないと言っています。必ず生きて帰ってきてほしい」と話した。

 2月15日、京畿道安山市にある高麗人(韓半島をルーツとする旧ソ連の人々)支援連帯「アリランセンター」に、ウクライナからやって来た高麗人の若者が集まった。彼らは若者らしい純粋さを持ち合わせていながらも、戦争による傷と苦しみで疲れ切った様子だった。皆、ロシアによる2年前の爆撃の中を何とか生き延び、高麗人という身分のおかげでウクライナを脱出できた人々だ。すでに避難生活が1年6カ月を超えた高麗人の若者たちが今回、一同に会した。

 同世代の普通の若者と同じように、友人と遊ぶのが楽しい年頃の子たちだが、戦争のことが頭にあるせいかどことなく硬さが見られた。

 突然にして住み慣れた自宅を離れなければならなくなった瞬間のことが、生々しく記憶に残っている。両親と共にウクライナ東部の激戦地ヘルソンから韓国にやって来た双子の姉妹、キム・ヤーナさんとアーニャさん(共に17歳)は「大切な絵をたくさん部屋に残してきたんですが、ロシアの軍人たちが家に入って全部奪っていきました」「友人たちがプレゼントしてくれた本を置いてきたことが心残りです」と話した。祖母と共に急きょ韓国への避難を余儀なくされた、高麗人の血を引くドミトリー・ニシャノフさん(18)は「祖母と来られたことは幸いだけど、何も持ってこられなかった」「ウクライナには悪い思い出だけ置いてきた」と話した。家族の話になると一瞬にして険しい雰囲気になった。若者たちは、ウクライナに残してきた家族や親戚、友人たちのことが目に焼き付いて離れないと話した。

 あまりにも急で緊迫した避難の旅だった。多くのウクライナ人は隣国ポーランドを通じてドイツとカナダに避難した。ドイツやカナダは、戦禍にあるウクライナからの避難者を特別難民として認定し、定住できるよう支援した。一方、韓国にルーツをもつ高麗人たちは韓国行きを選んだ。当時のウクライナには、避難することすら不可能な人もいた。高麗人3世・4世である彼らは、生まれた環境や事情はさまざまだが、彼らの親は当然のように避難先として韓国を考えたという。子どもたちがすがるべき「わら」は韓国だったのだ。

 高麗人たちの韓国入国を支援したアリランのキム・ジョンホン代表は「高麗人たちは容姿や文化を理由に、他の欧州国家より韓国を選ぶケースが多かった」「韓国は(避難してきた高麗人を)難民として認めてはいないが、成人は同胞ビザで働けるケースがあるため、子どもたちも親と一緒に韓国に来た」と説明した。

 しかし、韓国への道のりも容易ではなかった。韓国行きの飛行機に乗るためにまずはポーランドを目指したが、それすら簡単ではなかった。両親ときょうだいと共に韓国行きを決意したロマ・キルディシェさん(18)と、アーニャさん、ヤーナさんの家族がそうだった。キルディシェさんは「(ウクライナ東部の)ヘルソンが故郷なんですが、ヘルソンが占領されていてウクライナの西部には向かうことができず、ロシアが占領している南部のクリミア半島を経てロシアの領土を通過するしかありませんでした」と話した。こうして遠くにある自由を目指して、ウクライナの北東方向のロシア領地にまず入った。「ウクライナのナンバーを付けた車でロシアの中を走ったため、どこに行っても歓迎されませんでした。早くロシアを通過したいという気持ちで、休みなく4日間走り続けました」と話した。キルディシェさん一家は、ウクライナの領土と親ロシアのベラルーシの領土が遠くに見える地域などを走り、さらに西北方向に向かって走り続けてロシアを抜けた。その後、ラトビア、リトアニアを経てポーランドに向かった。走行距離は10日間で3500キロにも達した。韓国行きの飛行機では全員、泥のように眠った。

 苦労の末にたどり着いた韓国だったが、生活は困難だらけだった。韓国語はほとんど習ったことがなかった。そのため韓国の学校にも通えなかった。その代わり、ウクライナで通っていた学校のリモート授業を受けている。オデーサから両親ときょうだいと共に韓国に避難してきたパク・ナスージャさん(14)は「ウクライナ時間に合わせてオンラインで授業を受けているので、今でも昼夜逆転した生活をしています」として「今は長期休暇だけれど、時差ボケが直らず日の光を見ることに慣れていません」と話した。ウクライナに住んでいただけに、長期化する戦争は苦痛だ。

 家族が散り散りになり、生活はさらに苦しくなった。ニシャノフさんは「他の家族をルーマニアに残して祖母と韓国に来ることになったときは、自分が韓国で働いてルーマニアにお金を送ればいいと思っていました。でも、韓国に来てみたら、ビザなどの問題で働けませんでした」と話した。ニシャノフさんは「今は早く韓国語を覚えて自分が成人になるのを待つしかないです」と言った。

 こうした状況のため、家族のうち成人している1~2人が日雇い労働などで稼ぎながら高齢者と子どもの面倒を見ているという。子どもたちが学校に通えない中、親もそばにいられない時間が長い。キム・ジョンホン代表は「生活苦も問題だが、子どもたちが取り残されることはさらに問題」だとして「私たち皆が手を取り合い、この子たちが定着できるよう支援しなければならない」と話した。

チョ・ソンホ記者

#平和を願って

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