▲林志弦(イム・ジヒョン)西江大学教授(歴史学)

 群馬県の朝鮮人労働者追悼碑撤去を巡る論争が盛んだ。2012年の追悼式典における主催者側の「強制連行」という言葉を問題にして、今年1月に群馬県側は追悼碑の許可更新を拒否し、撤去してしまった。日本の最高裁で2022年に出た判決が、その司法的根拠を提供したが、後味は悪い。「うその記念物は日本に必要ない」と従軍慰安婦否定論者らが加勢している状況だが、この事案は解決したわけではなく、まだ進行中だ。

 関連資料を読んでみると、強制労働の不当性を力説する韓国の民族主義者、強制労働の存在を最初から否定する日本の極右否定論者、自発的意思を強調する韓国のニューライト、皆同じ認識を共有しているという思いを振り払い難い。

 朝鮮人労務者らが、自らの意に反して強制的に連れてこられたから強制労働だという主張と、「募集」「官あっせん」「徴用」による労務は強制ではないから強制労働に該当しないという主張は、激しく対立しているように見える。だが細かく見ると、強制労働は姿を消し、強制連行かどうかを巡って互いに「相手がうそをついている」と争っている格好だ。

 歴史は〇×問題ではない。両方とも正しいし、両方とも間違っている。自発的意思で日本へ渡った朝鮮人労働者もいるし、本人の意に反して強制的に連れていく行為もあった。単に朝鮮人だけでなく、徴用で連れてこられて過酷な労働を強要された日本人も多かった。

 仮に、日本の否定論者や韓国のニューライトの主張のように、強制連行が全くなかったとしよう。そうだとしても、強制労働はなかったという主張が正当化されるわけではない。21年4月16日に「日本維新の会」所属の馬場伸幸議員が衆議院に提出した強制労働関連の質問書と、それに対する当時の菅義偉内閣の答弁書は、明らかに問題が多い。

 朝鮮人労働者らが一括して強制的に連行されたと言えるか、という馬場議員の質問に対し、菅内閣は「募集」「官あっせん」「徴用」による労務は「強制労働」に該当しないと答弁した。答弁で菅内閣は、1932年に日本が批准した国際労働機関(ILO)の「強制労働ニ関スル条約」(1930年、29号条約)をその根拠に挙げた。

 国家動員体制の労務動員を強制動員から排除したこの条約は、第2次大戦後、人権と労働の基本権の基準を引き上げるその他の国際条約・宣言を経て、2014年に国家動員体制の強制労働も認める方向へと最終修正された。

 強制労働修正条約を批准したドイツ・ポーランドと異なり、日本・韓国はまだ批准していないのも問題だが、ドイツ連邦議会がポーランドなど東欧で強制動員した労働者、強制収容所の収容者、労役に動員した戦争捕虜などに対する賠償法を通過させたのは2000年8月12日のことだった。

 ドイツが早い段階から強制労働を認める基準にしたのは、強制連行の有無ではなかった。賠償を主管する「記憶・責任・未来財団」やベルリンの「強制労働資料センター」は、合法的に締結された契約だったとしても労働者がその契約を破棄できなければ強制労働だと定義している。

 実際ナチス占領当時、ポーランドの労働者は、金を稼いで新たな環境で出発しようという意図で労働者として登録し、ドイツの農村や工場へ行くケースが少なくなかった。「ドイツに行って、もっとましな暮らしを見つけ、経済的余裕を享受しよう」というスタイルの、ポーランド労働者らを対象にしたナチスの宣伝ポスターはあちこちに張られていた。

 苦労の末に金を得て、大きな旅行かばんを持って帰国した人々が、同じポーランド人から金銭狙いの強盗に遭う事例も少なくなかった。また、一部の若い女性は、身内の家父長的抑圧から逃れる方便としてドイツ行きを選ぶこともあった。こうした人々が強制労働の被害者として認められるのは、契約条件を再交渉したり、契約を破棄して移ったりできる自由を保障されていなかったからだ。

 強制労働に対する歴史的理解は、働いている人の人権という普遍的な基準に依拠するのが適当だ。強制労働の過去を韓日間の民族的感情対立から救出し、働く人々の人権を高揚させる契機とすることこそ、東アジアの戦後世代が、彼らの苦痛を責任持って記憶する道となる。今、日本と韓国で働く外国人労働者に強制労働の影はないかどうか、注視すべきだろう。

 日本の最高裁や韓国の大法院とは審級が異なる、東アジア共同の人権裁判所が強制労働問題を取り扱ったら、どういう判決が出るだろうか?

林志弦(イム・ジヒョン)西江大学教授(歴史学)

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