▲朴裕河・世宗大名誉教授/ナム・ガンホ記者

 今年9月末の連休を控え、かつて論議を呼んだ本「帝国の慰安婦」が再び話題になった。韓国出版界を代表する団体である大韓出版文化協会は著者である朴裕河(パク・ユハ)世宗大名誉教授に特別功労賞を授与しようとしたが、世論の非難を受け、それを取り消したからだ。

【表】「帝国の慰安婦」裁判の主な争点

 2014年、慰安婦被害者向け福祉施設「ナヌムの家」の顧問弁護士などが本の初版本について、慰安婦被害者9人を原告として名誉毀損を主張し、販売禁止の仮処分を求める訴えを起こした。その際に虚偽だと指摘された109カ所、その後原告側が修正申請した53カ所、裁判所の仮処分決定で34カ所が削除された状態で出版された2版本の資料を入手した。そして、長い連休を利用してその内容を検証した。2025年7月、大法院による無罪判決が出たにもかかわらず、読む気にはならなかったが、徒労に終わった協会の功労賞ハプニングが筆者を駆り立てた。

 予想通り、本の内容は気まずいものだった。その部分だ。「慰安婦問題を否定する人々は『慰安』を『売春』と考え、私たちは『強姦』としてのみ理解したが、『慰安』という基本的はその二つの要素をすべて含んだものだった。言い換えれば、「慰安」は(中略)収入が予想される労働であり、その意味では「強姦的売春」だった」(120ページ19行目)「日本軍人と恋愛もし、慰安を愛国することと考えた慰安婦たちの記憶が隠ぺいされた理由は、彼女たちがいつまでも日本に対して韓国が被害民族であることを証明する人物として存在しなければならなかったためだ」(190ページ5行目)

 少女像についても、朴教授は「協力の記憶を去勢し、一つのイメージ、抵抗し闘争するイメージだけを表現」(207ページ10行目)したと批判する。筆者はその貞潔な坐像の前で、しばらく立ちすくんだことがある。「ここまでしなければならないのか」というもどかしさが胸に湧いた。

 総合的に筆者は「帝国の慰安婦」に盛り込まれた歴史的事実、インタビュー、そしてその解釈の妥当性には同意しない。本全体の内容、特に論議を呼んだ初版の削除内容は、著者がなぜ日本の国家責任を否定し、業者に責任を転嫁しているという批判を受けるのかが分かるものだ。本が慰安婦被害者の苦痛を理解する一助となるかどうかも疑問だった。日本軍と慰安婦の同志的関係、甚だしくは愛が芽生えた事例に対する記述では、問題の本質であるマクロ的文脈を見過ごしたまま、事実より感性を強調した解釈の過剰が感じられた。指導学生の論文なら、その部分の削除を求めたはずだ。

 ところが筆者はこの本を「学問的妥当性が欠如した著作物がノイズマーケティングでどのように神話化されるかを示す事例」と批判的に評価する見解にも同意しない。実際にそんな神話を構築してきた人物が誰だったか私たちは今知っている。朴教授の本はその妥当性と完成度とは別に、権力化された市民運動勢力が聖域としてきた慰安婦のドグマに正面から対抗した学術的成果物だった。

 人間の生と歴史は全ての人にとって、同一の実体としては存在しない多層的現象だ。合意された解釈やタブー視される主題に対する新しく挑戦的で甚だしくは常識を外れた主張を通じ、私たちの認識は広がり、精密になり、実体的真実に近づく。学問の自由を憲法で保障(22条1項)する理由がそれだ。しかし、韓国社会で学問が享受してきた自由は制限的だった。権威主義時代にその自由を制約した一次的手段が国家安全保障だったとすれば、今は名誉毀損が主な手段になっている。

 学者が享受する自由と同様、研究対象になる彼らの名誉が大切なことは勿論だ。問題は陣営化された強硬な市民団体が時代精神、正義、献身という名分に二次加害の論理まで加え、過去とその延長線としての現在を眺める自分たちの二分法的善悪論から抜け出した観点を遮断する手段として名誉毀損を誤用していることだ。その結果は、歴史の明暗に対する深層的理解と共感の拡大ではなく、白と黒の論理による分裂と反感の深まりという悪循環を生んだ。慰安婦、済州島四・三事件、麗水・順天事件、光州事件、セウォル号、梨泰院などそのリストは長く続く。現在は昨年12月の非常戒厳令について同じことが繰り返されようとしている。

 名誉は不当に得られ維持される評判ではなく、個人と他人の相互作用によって構成される社会的評価だ(朴容相=パク·ヨンサン=弁護士「新名誉毀損法」)。口封じではなく開かれた意思疎通が出発点なのだ。これは韓国社会の深部に位置する葛藤と分裂の雷管を明らかにする第一歩でもある。閉ざされたドアを朴教授がようやく開けた。協会がその功労を称えようとしたのは当然のことだった。

尹錫敏(ユン・ソクミン)ソウル大メディア情報学科教授

イ・ミンジュン記者

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