▲安藤忠雄氏が設計した済州本泰博物館「ボンスター」展示場の内部。天井の三角形の窓から差し込む日差しが階段を照らしている。/金潤徳記者
「コンクリートの詩人」安藤忠雄はかつて喧嘩の番長だった。かけっこと格闘が得意で、高校2年生の時にプロボクサーになった。その喧嘩の番長を建築の道へと導いたのは「光」だ。長屋に改装するため、祖母の家の古い屋根が持ち上げられた瞬間、暗闇の世界に差し込んだ一筋の光。乾いたパンを噛みしめながら作業に没頭する大工に魅了された彼は独学で建築を学び、光と水と風を人間の生活に最も創造的に取り入れる建築家となった。
大阪で安藤に会った。膵臓がんの診断後、5つの臓器を摘出しても「体が軽くなっていい」と言っていた安藤の目は、相変わらず闘志に輝いていた。今年3月、済州島で自身の初のステンレス作品「ボンスター」を公開した安藤は「戦い抜くという緊張感を失った瞬間、すべては終わる」と語った。
【写真】安藤忠雄建築研究所(大阪市北区)
■大阪にこだわる理由
―世界的な建築家のアトリエが路地裏にあることに驚いた。
「私はここを拠点に40年以上活動してきた。建築のための実験の場であり、自分自身を鍛える場所だ」
―1973年の作品『旧富島邸』があった場所だ。
「1969年に建築事務所を開設して初めて建てた住宅だ。ところが、家主が子どもが生まれて家がだんだん手狭になったというので私が買い取り、増改築を重ねた末に今日のアトリエになった」
2つのコンクリート建築からなる安藤事務所は天井まで一筋の光が貫通する構造や、木が生い茂る中庭、ツタに覆われた壁面など、「空間から無限へ」という彼の建築哲学が凝縮されている。
―なぜ大阪にこだわるのですか?
「私は世界中の様々な場所で仕事をしているが、人間としての私の原点が大阪にあるという事実は変わっていない。私は大阪人というアイデンティティを常に意識し、地に足をつけた正直な生き方をしたい」
―がん闘病中にもかかわらず、毎日出勤されているのですか。
「10時に出社して、6時まで働いている」
―出勤したら、まず何をするのですか?
「私は一日の仕事を終えて事務所を出る瞬間から翌日やるべきことを考えている。朝、会社に着くとすぐに会議を始め、一つの成果物を作り上げた後、次の成果物を生み出すためにまた仕事をする。そんなサイクルの繰り返しだ」
―コーヒーを飲みながらだらだら過ごす時間は嫌いだと聞きましたが。
「そうではない(笑)。ただ、空虚な形式や非生産的な出会いは避けようとしている」
―あなたを「建築僧」あるいは「闘う建築家」と呼ぶ人もいます。
「私はメディアが言うような僧侶のようでもなければ、禁欲的でもない。しかし、常に戦っているような緊張感はずっと維持しようとしている」
―最近も道を歩きながら考え事に没頭するあまり車に轢かれそうになったことはありますか?
「そこまでではない(笑)。でも、歩きながら考える習慣は一度も変わったことがない」
■現代美術、私のインスピレーションの源
―済州に新作「ボンスター」が登場した。
「ボンテミュージアム(2012)に展示場を一箇所増築した。本館との連続性、意図的な対比の両方を念頭に置いて設計した。済州の伝統的な石積み風景をモチーフに、山房山と東シナ海に向かって視界を開く構造だ」
―安藤の象徴である打ちっ放しコンクリート工法ではなく、ステンレス材で外壁を仕上げたことが話題だ。
「メインビルの重厚なコンクリートと対比させたかった。空と周囲の緑地を柔らかく映し出すこの素材は、建築と自然の新たな関係性を提示している」
―済州と直島(香川県)をテーマにした開館展で、済州大学の学生たちが安藤建築の模型を制作して展示したことが印象的だった。
「ある場所で生まれた建築が、その地で育った若者たちの手によって模型として具現化されるというのは極めて自然なことだ。建築の原動力は動機、言い換えれば人間の意志と感情だ」
―あなたにとって済州と直島はなぜ特別な場所なのか?
「済州、そして『ごみの島』から『芸術の島』へと復活した直島は、自然と人間の根本的な関係について省察させる。火山島特有の強靭さ、荒々しさを持つ済州は韓国人の情熱的な気質を思い起こさせる」
―美術館の設計を楽しむあなたは、闘病中も「創造的な筋肉」を鍛えるために映画、演劇、コンサートを訪ね歩いていると聞いている。
「人生の原動力は感動からやって来る。私たちが芸術や文化と呼ぶものの価値はそこにある。文学、音楽、映画、演劇、視覚芸術、何であれ構わない。芸術との出会いを通じて心が揺さぶられるまさにその瞬間、人は普段とは違う自分になって自分自身を振り返る。私の場合、現代美術から頻繁にインスピレーションを得ている」
■自然との共生、寒くて不便だが
―あなたの建築からは敬虔さ、一種の宗教性が感じられる。
「私は常に単純な機能を超え、価値ある空間を作ろうと努力してきた。もし私の建築が見えないもの、物質の向こう側にある何かを呼び起こすのであれば、それは私にとって大きな栄誉だ」
―ル・コルビュジエの「ロンシャン礼拝堂」を見た後、光にこだわり始めたと聞いている。
「私は空間が光の量と方向へと還元されると信じている。この気づきへと導いてくれた場所がロンシャンだ。そこには想像しうるあらゆる種類の光が、圧倒的なほど空間を満たしており、私はその光の下で献身的に祈りを捧げる人々の後ろ姿を見た。その瞬間、建築の原型の一つを目の当たりにし、建築がただ光を追求するだけで実現し得るという確信を持つようになった」
―ロンシャン礼拝堂からインスピレーションを得て設計した作品が「光の教会」(1989)だ。
「光は信者たちの心を一つに集める。光は生命であり、希望だ。壁面に開け放たれた十字架の間から光と風が突き抜けてくることを願った」
―十字架部分のガラスを取り除く問題は解決したのか?
「残念ながらガラスはそのまま残っている。寒くて管理が難しいからだそうだ。対話以外に解決策はない。あるアイデアを最後まで貫くためには、強い信念が必要だ。私が生きている間に必ずそのガラスを取り除くつもりだ(笑)」
―「水の寺」と呼ばれる淡路島の「本福寺水御堂」は、蓮池の下に本堂が広がる奇想天外な造りだ。
「私は宗教的な人間ではないので伝統や慣習に縛られないようだ。寺の権力を象徴する屋根の代わりに、インドの仏教聖地で見た『蓮の池』を屋根としたのはそのためだ。信者たちは反対したが、90歳を超えた高僧たちが死ぬ前に蓮の花の中に収まった寺を見たいと言って説得してくれた」
―直島の「地中美術館」も地中にある。
「私は80年代後半から『風景に溶け込む建築』を探求してきた。その延長線上で、地中に完全に埋もれた建築を提案した。全体像を外部から把握できない地下では、人間が知覚する空間だけが問題となる。したがって、より純粋で本質的な空間に近づくことができる。インドの階段井戸、敦煌の莫高窟、カッパドキアの洞窟住居を体験した感覚は今も鮮明だ。下へと下るほど光は次第に減り、人は静かな闇に包まれる。この経験が空間に対する私の思考の本質を決定づけた」
―利用者の立場からすると、安藤の建築は不便だと言われる。あなたの名を世に知らしめた「住吉の長屋」(1976)については、「施主に賞を授けるべきだ」という話がある。
「日本現代建築の巨匠、村野藤吾の言葉だ。建物を見た彼は『この場所で、生活がしっかりと営まれている点に感動した』と語った。どんな賞よりも、その言葉が私の胸に残っている。建築は利用者によって命を吹き込まれて初めて意味を持つ。どんな挑戦も決意と危険を分かち合う相手がいる時だけ実現する。施主は今もそこに住んでいる。寒くて不便だが、空の星が見えるのが良いそうだ(笑)」
―建築にその土地が持つ歴史を込めようと努力しているそうですね。
「私はその土地の魅力と本質を頭ではなく五感で知覚しようと努めている。その場所だけにしか存在し得ない建築を作りたいのだ」
―建築家であるあなたは、大阪で桜の木を植える『桜の会・平成の通り抜け』プロジェクトを続けている。
「木を植え、都市に緑地を復元する行為も私にとっては建築だ。市民を参加させながら都市と関係を築き、その関係をより広く深く社会へと拡張していくことこそが、最も大きな形の建築だ」
―あなたのようなスター建築家でもニューヨークの「グラウンド・ゼロ」やロンドンの現代美術館「テート・モダン」などの大型コンペで落選したことがあるそうですね。
「挫折はするが怒りは感じない(笑)。たいていの場合、当選作は私たちの提案よりも優れている。そうした違いから私はいつも学んでいる」
―AIはどの程度活用しているのか?
「無条件に拒否するわけではない。ただ、AIが提示する答えなしには行動できないという姿勢は極めて危険だ。人間の創造性は躊躇し、苦悩し、試行錯誤を繰り返す時間の中に存在する。私自身も障害に直面し、立ち止まり、自ら考えるという過程を経て初めて自分の道を切り拓くことができた」
■自ら道を切り拓く
―20代は数多くの拒絶を体験した無名の建築家だった。
「私には学歴もコネもなかったから仕事が順調に進まないのは当然だった。だから落胆せず、リング上のボクサーのように倒れてもまた立ち上がった。大阪の商人精神を持つ祖母のもとで育ったことも私を強くしてくれた」
―どのような方だったのですか?
「幼い頃は『勉強は学校でしろ』と教えられ、私が20代になったころには『お金は使わなければ価値がない。自分への投資を惜しむな』と言って、それまで貯めた貯金を世界旅行に使わせてくれた。その旅が私の建築の原点になった」
―高卒の学歴で東京大学の教授になった。
「私が他の人より少しでも優れているとすれば、それは逆境に屈しない強さと粘り強さだろう。50代半ばで東京大学から招聘された際、学位がないとして反対する声もあったが私は挑戦した。教えるということはすなわち学ぶことだからだ」
―何を教えたのか?
「ある講義では建築コンペで落選したプロジェクトを題材にした。建築に唯一の正解は存在しない。私は学生たちが繰り返しの試行錯誤を通じて、自分だけの道を見つけ出すことを願った」
―お金がなく大学に行けなくなった時、「自分自身で道を切り開くしかなかった」とおっしゃっていましたよね。
「若者たちは自分が想像した通りに人生が進んでいかないといった不満をよく口にする。そのたびに私は『一生懸命やれ』と言う。この言葉に若者たちは笑うが私は非常に本気で言っている。人生において完璧な条件の下で戦えることはまれだ。ほとんどの場合、私たちは思い通りにいかない状況に立ち向かい、奮闘しなければならない。努力したからといって必ずしも報われるわけでもない。それにもかかわらず、急な坂を登りきった後に初めて見える景色がある」
―一人旅をして自分の足で触れる感覚を養えとも語っている。
「私は正規教育の代わりに働きながら学び、数多くの建築物を自分の足で訪ねて回って勉強した。偉大な建築の前に立つたびに絶えず自問した。何が人々を深く感動させるのか。もし私がその場にいたら、どうしただろうか。正解はなく道を教えてくれる人もいない。ただ自分の感覚だけに頼らなければならない。その瞬間は孤独でしばしば不安だが、必ず経験すべき自分との決闘だ」
―世界は戦争の最中だ。
「私は戦争がどれほど多くのものを奪い去るかを身をもって知っている。海外で仕事をする中で国ごとの文化や価値観の深い違いを痛感した。それにも関わらず、異なる視点を持つ人々と対話を重ねて一つの空間を形作っていく過程で建築は生まれる。人々をつなぐ文化の力を私は信じている」
―パリのユネスコ本部にはあなたが広島で被爆石を用いて設計した池がある。
「宗教や宗派を超えた祈りの空間だ。日本は原子爆弾の被害を受けた唯一の国だ。澄んだ水が広島の石の上を流れることで、今日わたしたちが享受している平和の礎となった人々のための鎮魂歌となることを願った」
―好きな韓国の建築は?
「宗廟。厳格な左右対称の秩序の中に意図的な逸脱と変奏が込められている」
―宗廟前の再開発をめぐり議論が白熱している。
「一つの解決策などない。その土地の歴史を背負った人々が対話を重ねながら解決策を見出していかなければならない」
―あなたが設計した作品の中で、永遠に残ってほしいと思うものはあるか?
「人間が作り出したものはすべて消え去り、衰退する。それにもかかわらず、私は人々の心の中に永遠に生き続ける建築を作りたい。何の後悔も残さないためにすべてのプロジェクトに毎回全力を尽くして臨んでいる」
―85歳安藤忠雄の願いは?
「自分の足で歩き、今日と同じように明日も働き続けること。それだけだ」
金潤徳(キム・ユンドク)先任記者
※ 本記事はAIで翻訳されています。
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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