帝王的大統領の弊害が問題になり、権力分散型の改憲の主張が韓国国民の過半数の支持を集めるのも道理といえる。大統領は、閣僚・次官クラスはもちろんのこと、民政首席・人事首席を通して各部処(省庁に相当)の局長クラスの人事や公営企業の人事、そしてポスコ(浦項製鉄)のような民間企業や金融界の人事を左右する。武器になるのは監督権限や許認可権限、捜査指揮権だ。民政首席というパイプで検察・警察に捜査対象や捜査の方向を流し込み、情報機関には要注意人物の動向を把握するよう目配せし、国税庁・公正取引委員会が企業の首を絞めてくるのに耐えられるはずがない。権力の集中とは常に、大統領を閉じ込めるわなだった。新大統領が、こうした憲法・法律・制度の慣性の下でも平穏であることを望むとするなら、それはパラシュートが開かなくても無事に着地できることを期待するのと変わらない。
帝王的大統領制の逆説は、かくも君主のような大統領が、実は国政の最優先目標すら法律で裏付けることができない、無能な大統領だというところにある。権力分散型改憲論は、「帝王的大統領の無能」という逆説の束縛を解くことができない場合、国政を完全にまひさせてしまう危険性を伴っている。最終意思決定の方式から多数決の原則を排除してしまった国会先進化法のせいで、先の見込みはさらに暗い。「協治」という言葉を合唱してはいるが、その「協治」の文化が一朝一夕のうちに湧き出てくることは望めない。
このあたりで、韓国政治において「忠誠とは何か」を問う必要がある。「大統領を愛する会」という忠誠集団を抱えた大統領が2人いた。1人は、国会で弾劾訴追案が通過し、後に検察の捜査を受ける過程で自殺した。もう1人の大統領は、憲法裁判所から罷免を言い渡され、検察の捜査も控えている。なぜ、忠誠集団は大統領を守ることに失敗したのか。