▲/写真=シン・ヒョンジュン記者

 25日午後、2度目の記者会見を開いた慰安婦被害者の李容洙(イ・ヨンス)さん=92=は、語ろうとする過去の事件の時期や当時の状況、登場人物らの名前をリアルに記憶していた。これに先立ち今月8日、尹美香(ユン・ミヒャン)「共に民主党」国会議員当選者は、正義記憶連帯(正義連。かつての韓国挺身〈ていしん〉隊問題対策協議会)の寄付金流用疑惑を提起した李さんに向かって「李さんの記憶が違っている」と主張した。しかし李さんは、あらかじめ準備した発言ではもちろんのこと、取材陣がその場で投げ掛けた質問への回答でも、細かな内容まで語った。

 李さんは、自分が慰安婦被害の事実を挺対協に初めて告げた日のことを説明した。李さんは「解放後、誰にも明かせなかった自分の人生の傷を一般の人々に公開したのは1992年6月25日」「(挺対協に)申告するとき、尹美香氏が幹事だった。幹事に(話を)した」と語った。

 李さんは、2015年の韓日慰安婦合意当時の状況についても具体的に説明した。あらかじめ準備した会見文ではなく、会見場で取材陣が投げ掛けた質問に対する回答だった。質問は「2015年の韓日慰安婦合意のとき、尹美香氏がハルモニ(おばあさん)たちにお金を受け取るなと言ったが、それをどう考えているのか気になる」というものだった。これに対して李さんは「(韓日慰安婦合意の後、当時の)尹炳世(ユン・ビョンセ)外交通商相が手紙を書いて、和解と癒やしの財団の金兌玄(キム・テヒョン)理事長が男性二人と一緒に持ってきた」「それを持ってきたのが1月29日のこと。私は、誰かに(日本側のお金を)受け取れ、受け取るなと言ったことはない。私が受け取らなければいいことで、私は全部反対した。だから、誰が受け取るのか受け取らないのか知らなかった」と答えた。

 李さんは、記者会見をする過程で、76年前に慰安婦として連れていかれたころの記憶も引き出し、細かく説明した。李さんは「韓国の年齢で16歳、満では14歳。あのころ、姓を持っていなければ配給がもらえなくて、姓を『やすはら』に変えた」「学校は日本の学校の3-4学年に通い、片仮名を習った。(日本軍の将校が)『やすはらとしこ』と(名前を)付けて、私も同じ被害者だということを知った」と語った。

 李さんは、日本人から虐待され、つらくて「オンマ(お母さん)」と大声で叫んだ後、耳鳴りがして今でも苦痛だ-と打ち明けた。次いで、挺対協がそのような被害者の話をきちんと聞いてくれたことはないという主張を、当時の状況説明と共に繰り広げていった。李さんは「挺対協というのであれば(こうした話を)おばあさんたちに尋ねて、明らかにしてあげなければならないのに、おばあさんを座らせて証言を取ったことは一度もない」とし「単に集まって遊んで、ご飯を食べるところで『どこに行ってきたのか』と尋ね、答えた内容を持っていって(挺対協は)本を出した」「1993年から城北洞に家があった。(そこに)本を置いて、6500ウォン(現在のレートで約570円。以下同じ)で売っているのを見た」と語った。

 また「挺対協の博物館を西大門刑務所に建てると言った。そのとき、パク・キョンリム氏と私のおい夫婦と行って、15万ウォン(約1万3000円)もらって挺対協で証言した」「尹当選人は600万ウォン(約52万円)を募金で集めて私を米国に連れていこうとした」と説明した。

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