一部の不動産暴落論者は、1980年代末期の日本の不動産バブル形成過程が韓国の住宅価格高騰と似ており、韓国にも住宅価格暴落の可能性があると主張している。東京都心3区の土地を売れば、全米の土地が買えるとささやかれるほど、日本の不動産価格が高騰した原因は、「不況」を防ぐために取った景気浮揚低金利政策だった。日本銀行は政策金利を1986年の5%から87年に2.5%まで急激に引き下げた。米国が85年に巨額の貿易赤字を解消するため、日本に強要した「プラザ合意」に従い、日本は85年に1ドル=250円だった円相場を86年には150円台にまで急激に切り上げた。価格競争力が低下した輸出企業が悲鳴を上げ、実質国内総生産(GDP)成長率は85年の4.4%から86年には2.9%に低下した。日本政府は景気浮揚のため、さまざまな開発計画を発表し、日銀は利下げを行い、流動性の供給を拡大した。低金利融資競争にも火がつき、膨らんだ流動性は株式と不動産の価格を押し上げた。86年から89年にかけ、株価と不動産価格は毎年20-30%上昇した。日本は国土面積が広くないため、地価は下がらないとする「不動産不敗神話」が火付け役となった。不動産投資関連の書籍もベストセラーになった。

■円高不況を防ぐための低金利政策が不動産価格を急騰させた

 低金利と膨大な流動性が日本の資産バブルを膨らませたように、韓国だけでなく、米国、英国、ニュージーランドなど全世界が「パンデミック不況」を防ぐため、低金利、量的緩和、補助金などの政策を講じ、資産価格を急騰させた。ブルームバーグが最近まとめた住宅価格バブルランキングで韓国は19位だった。1位はニュージーランドで、カナダ、スウェーデン、ノルウェー、英国、デンマーク、ベルギー、オーストリア、フランスが続いた。

 日本政府は当時、不動産価格が急騰しているにもかかわらず、土地取引監視区域の指定、融資審査の強化など段階的な措置しか取らなかった。不動産価格の高騰が社会問題になり、日本のNHKは「住宅価格を半分にしよう」という特集を連日流した。不動産価格高騰を放置した政府・日銀の無能に対する批判が相次いだ。韓国ではこれまでに25回にわたる不動産政策が発表されたが、金利は過去最低水準で、流動性は増え続けている。

■利上げと不動産融資総量規制でバブル崩壊、機会逃した日銀

 不動産価格高騰は社会的対立を招き、政治的な争点となった。バブルをある程度容認してきた日本政府は世論に背中を押される形で不動産融資を事実上引き締める「不動産総量規制」を導入した。バブル絶頂期の89年12月、日銀総裁に就任した三重野康氏は「インフレなき成長」を主張し、電撃的に金利を引き上げた。

 政府の求めで利上げには消極的だった前総裁とは異なり、三重野総裁は「不動産価格は20%程度下がるべきだ」とし、2.5%だった政策金利を90年8月には6%まで引き上げた。さらに、88年のバーゼル合意に従い、銀行も不動産担保融資を削減。そうしたうねりが不動産市場を覆った。不動産市場よりも先に株式市場が反応した。89年12月に3万8915円で最高値を付けた日経平均は、利上げ本格化を受け、90年10月に2万円を割り込んだ。

 青天井で上昇していた地価も利上げによる影響で、調整期を経て下落に転じた。当時三重野総裁は「庶民のためにバブルという悪を退治する義賊」「バブル退治人」などと称賛された。三重野総裁は94年12月まで在任し、不動産価格と株価を急落させることには成功したが、景気浮揚のための利下げにはあまりに消極的だった。三重野総裁は日本の景気低迷が長期化し、「日本経済を滅ぼした主犯」との批判も受けた。日銀は株価と不動産価格の急落を受け、政策金利を93年には再び1.75%まで引き下げた。しかし、あまりに遅く、緩やかに金利を引き下げたことへの評価は厳しかった。2002年にFRBの経済学者は報告書を通じ、「89年にバブルが崩壊した際、日本の中央銀行が政策金利を攻撃的に引き下げていれば、デフレの悪循環は訪れなかった」と主張した。

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